心筋梗塞から生き返って

心筋梗塞から生き返って

今年の二月二十六日のことだった。なぜか二・二六記念日。
 午後の六時半ごろ、高松日中友好協会の総会懇親会の途中で、突然、視界がうす暗くなり倒れた、一瞬だったが。すぐ立ち上がり、その後何ともなかった。しかし、しばらくして、吐き気がきた。椅子に座り休んでいた。トイレへ行きたくなり座ると、すごい量の大便が全部でた。会合はすでに終わり、誰もいない。階段を、はうようにして、ゆっくり、一階まで下りた。苦しくて、フロントの人に家へ電話してもらった。インスリンを食前にうち忘れていたので、そのせいだと思っていた。頭も痛くなる。どうも変な感じだ。普通じゃない。身体が寒くなっていく。主治医の井垣ドクターを呼んでもらった。胸も痛くなりソファーに横になる。後で聞くと、この時が一番死に近かったようだ。
 ドクターが来て、すぐに一緒に高松日赤へいく。

 急患がたくさんいて、苦しいのになかなか看てくれない。救急車で来る人が優先されるシステムらしい。井垣ドクターが、知り合いの医者を呼んでくれたようだ。それからはスムーズに進行したようだが、俺はそれどころでなくなってくる。どんどん状態が酷くなる。まさか、このまま死ぬとは思わなかったが、何か今まで体験したことがないことが起こりつつあるな、と感じた。<早く何とかしてくれ・・・舌禍錠くれ・・・> 自分でも分からないが、やたらと叫び出す。
 心電図や心臓エコーの検査の結果で、病名がはっきりしたようだ。心筋梗塞。裸にされ、何か薬を飲まされる。綺麗な顔をした若い看護婦が、チンチンにカテーテルを黙々と入れる。冷酷な女やな。恥ずかしいな。<ああー頼む、それだけは勘弁してくれ。あーおーいー・・・・・>叫んでいる内に終わっていた。毛ぞりもされる。最悪の場合は足の股からカテーテルを入れるためらしい。点滴を取り付ける。<早くラインをつくれ>と、医者が命令しているのが聞こえてくる。
 そして、やっと、地下一階の手術室に運ばれて行った。

初めて手術室から集中治療室へ

 手術中、意識はずっと鮮明だった。目はふさがれて何も見えないが、耳は良く聞こえる。末澤ドクターや他のスタッフとも話しながらの手術、俺は非常に珍しい患者らしい。ドクターから、優しく励まされながら、説明を受けながらの進行。まず、右腕全体を消毒し、麻酔薬をうち、カテーテルを入れる。冠動脈の根本が、一カ所詰まっていた。風船をふくらませて、ステントという金属の網を、血管の壁に貼り付けた。 二時間ぐらいでやっと終わった。その時、冗談半分で、<もう帰って良いかな>と、言ったら、手術室にいた七八人のスタッフたちが、何故か、一瞬みな黙ってしまい、室がシーンとなった。手術で死ぬ可能性もあったようだ。しかし、ともかく無事に第二の危機を脱した。

 ベッドに移され、集中治療室へ運ばれた。左手に点滴針と血圧計、右手には、
血中酸素濃度測定器とカテーテル挿入口圧迫器、そして、鼻には酸素吸入器、胸には心電図測定器が取り付けられ、まるでロボットみたいな状態だ。実はこの時期も、まだ危なかったらしい。四分の一ぐらい死んだ心臓の壁が破れることがあるらしい。家族のものが心配そうに待っていた。
 いろんなことが頭の中に出てきて、一晩中寝れない。目をつむると、身体全体
がこわばり、肩がはり、頭の中がカチカチになる。瞳の中で、さまざまな映像がスクロールする。翌日からは睡眠薬をもらう。
 目が覚めたら、回りに看護婦があつまり騒いでいる。俺の点滴チューブがはずれて、血液が流出していたようだ。大したことはない。
 ベッドに縛り付けられたような状態で、あれこれ考える。拾われた命どう使う?幸せなうちに死んでも良かったが。その方が、破天荒な俺は回りに迷惑をかけなくて良いのでは?・・・

 ある日、大便をしたくなって看護婦と喧嘩した。非常に腹が立った。 <先生に相談しますから・・・、落ち着いてください・・・>と言うだけで、具体的に何もしない。脂汗が出てきた。 <アホか。お前は誰のために働いているんだ?自分の責任だけ考えて。、患者の立場に立ってみろ。ベッドを汚して良いのか。飛び降りるぞ。さっさと簡易トイレもってこい・・・>と、怒鳴りつけた。 興奮して心臓が破れそうになる。 看護婦というのは非常に大変な仕事だと思うが、自分は誰のために何のために、このようなしんどい仕事を選んだのか、患者の立場になって再度考えて欲しかった。かっこよく言えば、彼女の将来を期待するが故に。本当は、せっぱ詰まって、そんなゆとりなど無かったが。

眠れないから、回りの、いろんな声が聞こえてくる。看護婦と患者のけんか腰の
会話・・・ のどの痰を取るため、 励ましたり脅したり・・・<喉を開けて、開けないと取れないでしょう、痰が出なかったら喉を切って手術するよ、それでもいいの・・・はーい、アーンして、そうそう、良くできたね>。
我儘な患者は、すぐに、大した用でもないのに看護婦を呼ぶ。無視すれば良さそ
うなのに、優しいベテラン看護婦は、忙しく動き回りながら、遠くからでもちゃんと患者と会話をしている。<はーい、今行くよ、順番だから待ってて>。そんな面倒な患者なんか適当にほっておけばいいのに、と思うが。すごい。素晴らしい。看護婦の、やさしい粘り強さ、ゆとり・・・心から尊敬する。俺には絶対できない。
 看護婦と、ある老人患者とのトンチンカンな会話が面白かった。しかも、何時
間もつずく。どこかでナイチンゲールの話になり、患者が<トルコと何かと戦争して・・・・>、声がはっきりしなく、ブツブツと言っている。看護婦は良く理解できず、<なーに、何が無いの・・・>。 患者はクリミア戦争の話をしたかったのだと思うが、教えてやりたくても俺は動けない。今度どこかで会ったら話をしてみたい老人だった。まだ生きているかな。

 血中酸素濃度を調べる器具で、看護婦と、俺が二回ヒマラヤに登った話になる。<ヒマラヤでは、毎日、山岳部の後輩の日下ドクターが、隊員の血中酸素濃度と血圧を測っていたよ。・・・> 山を好きな娘はヒマラヤの話しに乗ってくる。だんだん元気になってくると、若い看護婦との会話が楽しみになる。

 動き始める検査は、まず自分の力で座り、二分間立ち上がることから。次がトイレ歩行、200㍍歩行、エコー検査とつずく。合格すれば一般病棟へ移れる。集中治療室を出る日、やっと、おしっこチューブをはずしてくれた。とたんに、トイレへ行きたくなった。おしっこかと思ったが、チンチンの先からものすごいオナラが出た。ビックリした。すっきりした。気持ちがいい。こんな体験はめったに出来るものじゃないだろう。

ようやく集中治療室を出て一般病棟に移る日、隣室の患者が死んだ。家族の泣き声が聞こえてきた。天の神が、配剤を一つ間違えていれば、もしかしたら、それは俺だったかも知れない。三分の一の確率で、そうなっていたらしい。後で聞いたことだが、背筋が凍る。心筋梗塞は、六時間以内に手術しないと死んでしまうそうだ。

 特に希望してないのに、差額ベッド代が一日7000円ぐらいする個室に、自動的に入れられた。今までに、入院した経験はあるが、こんな個室は初めて。冷蔵庫、洗面台、折りたたみベッド、トイレ、それに薄型テレビまで付いている。専用電話まであるのは嬉しい。たいへん居心地が良い。広くて、ゆったり生活できそう。しかも、すぐに挨拶にきてくれた担当の看護婦は、北岡さんという24歳の美人。ツイテルナ。今年はいったシンマイ看護婦だが、知的で好感が持てる。趣味は楽器で、毎年演奏会を開いているとのこと。将来は、保健士になりたいらしい。自分で勝手に、彼女の励まし人になることにした。退院後、メル友になった。
 俺の部屋には、孫二人の写真と、<山と渓谷>やいろいろな本、それと韓国語のテキストを置いてあった。それを見て、森本さんという、瞳の綺麗な看護婦が話しかけてきた。というのも、森本さんは前に、お母さんと一緒に韓国へ行ったことがある、とのことだった。この世の中、何が縁となるか分からない。しかも、お父さん、お母さんともに、俺と同じく山が大好きらしい。石鎚山の近くに住んでるとのこと。一度一緒に登りたいな。たいへん優しい看護婦で、蒸しタオルを持ってきてくれ、背中をふいてくれた。趣味は、夫婦ともにサーフィンとのこと。彼女とも、今はメル友だ。

 近くの個室に、知った名前があった。昔、松島小学校のPTA会長していた頃の知り合いの和歌美鈴さんだ。面接禁止と書いていたので気になっていたが、女性の部屋に入るわけに行かないし・・・結局会わずしまいだった。俺が退院したずっと後で知ったのだが、彼女は、その病室でそのまま亡くなったそうだ。やはり、病院は常に、死と隣り合わせ。

 個室にはいって二日目から、多少元気が出て、やっと日記を付け始めた。最初のことばは、<生かされた命、生きているだけで丸儲け>。
 お父さんは生きてくれてるだけで安心する、と妻に言われた。心に、ぐっと来る。
 結婚して千葉市に住んでいる長女の直子から手紙が来た。 <お父さんへ。すごく心配しました。もう少し自分の身体を大事にしてあげてください。入院中は、お医者さんと看護婦さんの言うことを、良く聞いて、ワガママはいわないように。暇だと思うから、高松に行くときには本を持っていってあげます。もう、お父さんはいい年なんだから、身体を過信してはダメだよ。くれぐれも、入院中は、おとなしくしていること。では、お大事に・・・> お見舞いの手紙というより、なんか、娘に説教されてるみたいだ。年を取ると涙もろくなる。あまり眠れず毎日、眠剤をもらう。

 ここでの検査は、200㍍歩行、階段歩行、二十四時間心電図、シャワーテストと、いろいろある。楽しくなったり、鬱になったり。個室は十階だから景色が良い。昔かよった付属中学(今は小学校と幼稚園)がよく見える。紫雲山も見える。山を歩きたいな。うどん、ケーキ、鮨をたべたくなる。
 毎日必ず、土日でも、生真面目な29歳の植木研修医がやって来る。彼との会話が、だんだん楽しみになってくる、まるで恋人のように。この顔を見ないと一日が終わらない。いろんな情報も入ってくる。 <僕のいる寮は、昔、幽霊が出たらしいですよ> 、<末澤先生は、なんだか川田さんを怖がっているみたいですよ>などなど。らっきょのコマーシャルの大村昆の顔をしている。<彼女を紹介しようか>と言うと、<いや良いです、今いますので>だって。 アメが欲しくなって、<シュガーレスのを一日三個なら良いだろう>と聞いたら、<二個にしましょう>という。 <そろそろケーキ食べても良いかな>、<駄目です>・・・
 彼とも今メル友だが、めったに返事が来ない。それほど、研修医というのは、大変忙しい、すごい仕事なのだろう。退院する日、<川田さんの顔がみれなくなると、僕もさびしいです>なんて、可愛いことを言う。

 退院まえに再びカテーテル検査をする。点滴しながら車いすにのって、地下一階へ。前には緊張していて感じなかったが、造影剤をいれると、急に金玉がカーと熱くなる。後にこのことを五歳の孫に話すと、非常にうけた。
 血管はきれいだが、心筋が、かなりやられているらしい。末澤ドクターの声が沈んでいる。もう再びヒマラヤはダメみたい。いろいろ考えてしまう。事実を事実として、ありのままに受け入れ、プラス思考でいこう。これからは、頑張っている人達の励まし人間になろう・・・・・。
 しかし、ある程度は覚悟をしていたが、実際に、翌日の結果説明を聞いたときは、本当に落ち込んだ。手術後の経過も体調も良かったので、思っていたより悪く、ショックを受けた。ビデオを見ながら、<心筋の約四分の一が動いていないようだ。心筋は一度死んだら生き返ることはない。今後、悪くなることはあっても、今以上に良くなることはないでしょう。これから心臓が肥大したり、脈拍数が増えていけば心不全となる。・・・日常生活は普通にしていいです。心臓の負担になることはやめておいた方がいい>と、淡々と説明される。まさか、ここまでとは。言葉もない。それを受け入れるのに、一ヶ月以上かかった。

 退院後は自宅療養。みんな優しい。筋肉痛、頭痛、めまい、水便・・・と、いろいろな症状が出てくる。もう俺も、年貢の納め時なのかな。これからの人生設計を考え直さなければいけない。これまで、苦しんだことや辛い時期も何回かあるが、全体的にみれば、家族や回りの人達のおかげで、今まで幸せな人生を歩んできた、と思う。山で死にかけたこともある。酒で死にかけたこともある。交通事故で死にかけたこともある。そして、心筋梗塞。でも死ななかった。じゃ、この生かされた命を、これから、誰のため、何のために使えばいいのか?俺という人間を、必要とする人が、好きなように、有効に、利用して欲しい 、と思うが。

 わが家の庭に、今年初めて咲いた一輪の桜が、なぜか、とても愛しい。そこで一句、<花一輪、一輪なれど、わが桜>。また、時に、 紫雲山を朝早く歩きながら、生きていることを実感する。蝉の声が、かしましい。<恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす>という都々逸がうかぶ。俺は、はたして、蝉か蛍か?

 元気になったら、会いたいと思う人には早めに会いに行こう、と考えていた。ところが、その内の一人が亡くなられた。花園小学校の時の恩師で、長きに亘り大変お世話になった、川田美都子先生だ。最期まで、俺のことを心配して、信じてくれて、愛していただいた。卒寿の大往生ではあったが、悲しい。とても、とても、とても悲しい。そして、ありがとうございました。安らかにお眠り下さい。人間は、悲しすぎると、涙も出なくなる。この年になると、毎年、親しい人が何人か、あの世へ先に逝ってしまう。

 手術から六ヶ月後の九月初旬に、また、カテーテル検査のため入院した。すると、驚いたことに、死んだと思われていた心筋が、なんと、ほとんど生き返っていた。末澤ドクターの説明によると、死んでいたのではなく気絶していたのだろう、と言う。ヒマラヤも、自己責任なら行ってもいい、とのこと。嬉しかった。元気が出た。なんと、悪運の強いやつか。俺、これから、どうする?生まれてから死ぬまで、一刻も休まず、けなげに動きつずけてくれている心臓に感謝しつつ、何をする?また元気になって、あれこれ、みんなに迷惑かけるのかな。でも、まあ、こんな俺でも少しは自覚ができただろう。自分の身体に優しく、そして、少しは他人の心に優しくなれるかも知れない。
 過去の夢は捨てよう。もう過去は振り返らない。後悔もしない。俺には、まだまだ、未だ見ぬ夢、見果てぬ夢が、いくらでもある。
 天球囲碁を発明・開発しよう。もっともっと恋をしよう。韓国、中国、ネパールで日本語を教えつつ、子どもたちや学生に、俺の、ものの見方・考え方や知識を伝えよう。団塊の世代の連中を動員して、孫や子の時代に生きる人達が今より住みやすい地球環境を創りだせるよう働きかけ、その一助となろう。突然、思わぬ病気にかかり遅れたが、まずは、去年約束した、たかまつ日韓交流協会を立ち上げよう。
 そして、出来うることなら、二三年後には、再びヒマラヤの山に登りたい。・・・力半分でも、ゆっくり、一歩一歩、あきらめず歩きつずければ、いつかは、必ず、目標に到達できる。生きている限り。<青春>から始まる人生の季節で言えば、俺の身体はすっかり<白秋>だが、気持ちには、まだまだ、<朱夏>が残っている。ましてや<玄冬>の時代なんて想定外だ、としよう。 
 これから、俺に、そして俺の回りに、何がおこるか、楽しみだ。こう、ご期待。

2005年10月5日