3年ぶり、3回目のヒマラヤに行けた。昨年2月に心筋梗塞で倒れた時は、主治医から退院の時、「二度とヒマラヤには行けません」と、宣告されたことを思えば、まるで夢のようだ。生物部顧問の山本先生の指導で、中学生の時から石鎚山や剣山に登り始めて以来、すっかり山に取り付かれてしまった。高校時代と大学一年は山岳部に入った。北アルプスに四十日も入ったり、南アルプスや丹沢山塊をうろついたりしたことを思い出す。
初めてのヒマラヤは2001年10月に行ったアンナプルナBCだ。高校のOB山岳会15人のメンバーで、非常に楽しい山行ができた。ずっと体調も良く、4500メートルまで登れた。
2回目は2003年9月のテリッツオ・レイクだ。インスリンを毎日打ちながらの登山で、かなりしんどかった。でも、5800メートルまでは何とか行けた。
今年は、ブルーポピーで世界的に有名なランタンへのトレッキング。2006年9月15日の夕方、高松を出発して、関空からバンコク経由でカトマンズへ。16日の昼12時半には、もうカトマンズに着いていた。日本との時差は3時間15分だ。現地の旅行社に1人1000ドル支払う。
17日の朝、ヘリコプターで3010メートルのゴラタベラに到着した。そこには軍隊の基地があり、入山許可を受けなければいけない。すでに、サーダー(47歳)とサブ・サーダー(21歳の大学生)、コック、キッチンボーイ3人、ポーター3人の総員9名のスタッフが、全ての用意をして待っていてくれた。隊員は、亀井(41歳・男)、湯浅(27歳・男)、安達(56歳・女)と小生(58歳)の4人。ゆっくり、ゆっくり歩いて、3541メートルのランタン村へ向かう。
途中にはいくつもの茶店がある。その1つの庭から、4歳ぐらいの女の子が「チャイ、チャイ・・・」と呼び込む。つい誘われて、レモンティを注文してしまった。家の中に入ると、なんと生まれて8日目のあかちゃんがいたのには、ビックリ。裸にして体中にバターを塗りつけていた。父親といろいろ話し込んだが、最後に、やはり、「この4歳の子をカトマンズの学校にやりたいので里親になってくれないか」と、頼まれた。子供がいる親と少しでも話をすると、必ずと言っていいほど里親を頼まれる。
昼前には、ランタン村に着いた。四本線の電信柱があるのには驚いた。2年ほど前に水力発電ができたそうだ。ロッジもかなり新しいのが多い。すぐに子供たちが集まってくる。ペンやチョコ、タオルを欲しがる。昔は「スイート、スイート」と言って、飴を欲しがったのだが。
夕食はロッジの居間でとる。隣にあるキッチン小屋でコックたちが作った料理を運んでくれる。まず、テーブルクロスをしいて、紙ナプキン、ナイフ、フォーク、スプーンを並べる。スープから始まり、大皿に盛ったメインディッシュ、そして最後には必ずなんらかのデザートが出る。大体は缶詰のフルーツだが。こんな待遇は、ネパールでなければとうてい味わえない。
この日、高度障害のため頭痛がし、食欲もあまり無い。3年前や5年前の時とは大違いだ。やはり、病気による体調不良とトレーニング不足のせいなのだろう。
翌18日は朝6時に起床。部屋までモーニング・ティーとビスケットを持ってきてくれる。そして、しばらくしたら、洗面器に入れた湯が来る。こんなこと信じられますか?朝食は、味噌汁におかゆとパンだった。体調不良のわりには大きな大便がでた。しかも、昔インド旅行したとき以来のお尻のふき方を久しぶりにやってみた。右手に水をいれたコップを持ち、左手でお尻を洗う。インドは乾燥していたから、そのまますぐ乾いたが、ここではそのあとで、紙かタオルが必要だ。紙を使ったら便器には流さず、側の籠に入れるのがルール。
蕎麦畑やヤク・ゾッキョの放牧地のなかを4時間ほど歩いて、キャンジンゴンパ(3840メートル)に到着した。ゴンパとは寺院のことで、かなり大きいラマ教寺院があり、たくさんのタルチョ(旗)が張り巡らされている。大小色とりどりのロッジがある中で、一軒、日本人が経営している、Hotel Naya Khang があった。バイタリティあふれる、まだ28歳の若者だ。東京でかせぎ、年に3ヶ月ほどランタンに来るそうだ。19歳でヒマラヤに取り付かれた結果こうなったとのこと。食堂には、日本語で書かれた居酒屋メニューがある。残念ながら今回は体調不良で一回も利用しなかったが。そのロッジに、たまたま来ていた26歳の可愛い娘(東京大学の法科大学院生)と湯浅が仲良くなった。
ゴンパのすぐ下に、ヤクの乳で作るチーズ工場があった。蔵には6キロから13キロの丸いチーズの塊がぎっしりと詰まっている。ちなみに6.8キロので2000ルピー(約3400円)だった。亀井と安達さんが二人で1つ買っていた。これ誰が持つんだろう、と言いながら。
居酒屋の亭主に紹介してもらった馬に乗り、19日は、一人で、ランタンBCを往復した。朝7時に出発して、かなり急な道なき道を、ゆっくり、ビスターリ・ビスターリで進む。途中、3ヵ所は馬も停まってしまう。降りて30分ぐらい歩く。2ヶ所に、きれいな小川が流れている平原がある。そこには、青紫色の、可憐に美しいランタンりんどう(仮称)がたくさん咲いていた。ヤクやゾッキョや馬の糞がいたる所に落ちているのは興ざめだったが。
3時間ぐらいかかってランタンBCに到着した。ランタンリルン(7225メートル)が雲の間から、ほんの一時、顔を見せてくれた。その右には、巨大なカルガ(氷河)が大きく目の前に迫ってくる。それに連なる峰々もなかなかのもので、そう簡単には登らせてくれそうにない。ケルンが2つあった。その1つは日本人のもの。1961年5月11日に死んだK.MORIMOTOとK.OSHIMAとシェルパのGALTSEN NORBUの3人の名前を刻んだ石版碑を埋め込んでいる。実は、ランタン村にも、山の崖下に、この碑がある。2日前、偶然に出会った地元の老人が、草を掻き分けながら、そこまで案内してくれた。ネパールの地図には、6750メートルのあるピークにモリモトリーと名ずけていた。
12時ごろキャンジンゴンパに帰り着いた。800ルピーを馬子に払って、いざ昼飯へ。亀井と湯浅は、キャンジンリー(4773メートル)に登り、眼下の雄大な景色を楽しんできたと言う。湯浅に頼んで、今年亡くなった石本秋栄おばさんの遺骨灰をキャンジンリーの頂上から撒いてきてもらった。
20日、6時起床。今朝はこれまでで一番の快晴。周りの山々がはっきり見える。まず、何といっても、ランタンリルンの尖った白い頂上が群を抜いている。右回りに、カルガ(氷河)、いくつかのリーと続き、反対側には、雪で覆われた美しい台形のナヤカンリー(5846メートル)が鎮座していた。
8時すぎ、2頭の馬を引き連れ、全員でランシーサ・カルガ方向へトレッキングを開始した。少し行くと、大きい河原の真ん中に飛行場跡があったが、言われてみないと分からない。単なる小石ごろごろの広場。10年前まで使われていたとのことだが、壊れかけた石小屋(空港事務所跡)が痛々しい。さらに暫らく行くと、チーズ工場があった。工場といっても掘っ立て小屋。でも直径1メートルぐらいの銅製鍋とステンレス製バター分離器はなかなかのものだった。随行のシェルパも珍しそうに見ていた。自分の村にはない、と言っていた。
しゃっしゃか・しゃ、しゃっしゃか・しゃ、と聞こえる馬の鈴音に揺られながら、3時間ほど行った所に、小高い丘があり、タルチョが張っている。お神酒がある。信仰深いサーダーが、香木の枝を煙らしお祈りする。サーダーは名前をプルバ・ギャルゼン・シェルパといい、1982年にアンナプルナ南峰に登ったとのこと。その他、マナスル等5峰に登頂している。いつも一番最後からくるので時間を持て余し、道の石を除けたり坂を直したりしていた。なかなか出来るものではない。
ここが今日の目的地らしい。サブ・サーダーと馬子が馬に乗って、ヒマラヤ平原を楽しそうに駆け巡っている。あまりにも楽しそうなので、頼んでやらしてもらったが、馬が走ってくれない。何度か挑戦したが駄目。次回の再挑戦を自分に誓う。
午後3時ごろロッジに帰り着いた。今日の馬代は1頭につき1500ルピーだった。使用時間は2時間ぐらいの違いで、しかも馬2頭に馬子1人なので、少し高い気がした。いよいよ待ちに待った、さぬきうどんだ。昨夜からコックに頼んでいた。作り方を教えると、慣れたもので「葱はないけど生姜でいいですか」だって。驚き桃の木山椒の木だ。食欲が無くても、うどんなら別腹。つるつる入る。満足まんぞく。
天気もよく時間も余ったので靴下を洗い始めた。すると、サブサーダーのペンバ・シェルパがやってくれると言う。ネパールに3人目のチョラ(息子)ができた。本当に不思議なことに、ヒマラヤに来るたびにチョラができる。最初が5年前のバサンタで、2番目が3年前にできたアシスタマン。先日カトマンズで会ったアシスタマンは日本語が上手になっていた。ペンバは今カトマンズの大学でホテル経営学を学んでいる。将来はアメリカに留学したいと、意欲的だ。
前日飲んだ利尿剤のせいか、この日ようやく頭痛がなくなり、身体が4000メートルに慣れたみたい。夕食後は、ネパール人スタッフ全員と、歌や踊りの交換会となった。例によってレッサムピリリ(恋歌)を繰り返し歌い、シェルパダンスを習いながら踊った。馬の鳴き声を聞きながら熟睡。
21日、もう下山だ。天気が悪い中、いっきにラマホテル(2435メートル)まで下る。朝6時に出発して午後3時ごろ着いた。雨に濡れて、くたくた。ゴーゴーという河音がうるさい。
翌22日、森林地帯を下る。蝉が鳴いていた。ネパール語には、蝉という単語が無く、小さくてうるさいやつ、というらしいが、本当かな?森の緑、黄色い落ち葉、川苔のコントラストが美しい。油断をすれば蛭にかまれる。
午後2時ごろ、シャブルベンジ(1430メートル)に到着。かなり大きな町で、ホテルも立派。温泉があるというので期待して川底まで降りてみたが、がっかり。コンクリで囲んだ箱が並んでいるだけで、掃除もしていなく、藁の栓をすれば、ぬるくて黄色い湯が数十センチ溜まる仕掛けだ。ちなみに、ここは混浴。一番端の箱で、中年の女性が4人、お互いに背中を洗いながら入っていた。胸が見えても気にしていないのが不思議。我々は入るのを諦め、ホテルに戻りシャワーを浴びるが、やっぱり湯が出ない。しかし久しぶりなので、水だけでも気持ちがいい。さっぱりして、いざビール。うまい。1瓶200ルピー、不思議なことに、この値段はどこでも均一で、山の上でも同じだった。
最後の夜なので、コックたちが、デザートに大きなケーキを作ってくれた。食べる前に全員で記念写真を撮る。明後日からネパール最大の祭りのダサインが始まるので、たくさんのネパール人が、故里に帰るため、多くの土産物や荷物を持って集まって来ていた。ホテルの女マネージャーが作った手刺繍のチベット帽子を買って被り、一人遅くまでチベット族ネパール人たちと興にのっていた。
23日、午前6時半、屋根の上まで人が乗った満員バスでカトマンズへ出発。ゴロゴロでこぼこ道を難儀しながら走る。いつ上から大石が落ちてきて、バスもろとも谷底へ落ちても不思議でない。途中、がけ崩れの所を30分ほど歩き、迎えのバスに乗り換える。やっと一安心。午後5時半ごろカトマンズ着。何と、タイでクーデターが起きていた。安達さんのおごりでダッタン蕎麦を食べに行ったが、ものすごく美味しかった。しかも高級感あふれる佇まいの店でびっくり。
ネパール最後の日、午前中ジャンガムの案内でパタンや猿がいっぱいいる河横の葬式場へ行った。ダサインが始まったので人出が多い。ホテルにサーダー、サブ、コック、そして、安達さん(カトマンズ在住)が素敵なサリーを着て見送りに来てくれた。再会を誓ってお別れ。
来年の10月は、高校OB山岳会五十周年記念で、ダンプスピーク(6012メートル)を目指す。そして、数年後には、孫を連れて再びランタンにきて、ヒマラヤ4000メートル高原を、馬に乗って一緒に駆け巡る。それが現在のささやかな夢だ。身体を鍛え、気力を養わなくっちゃいけない。
2006年10月10日
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