カラパタールへの道、途中下山

カラパタール(5545メートル)への道、無惨な途中下山

―――第4回ヒマラヤトレッキング始末記―――

2008年11月6日~12日

それは、トレッキングを開始してから5日目(11月6日)の夜おこった。まさか、自分が重度の高山病にかかり、緊急ヘリで下山するはめになるとは、思ってもみなかった。しかも速、緊急入院。これまでもヒマラヤに来るたび、軽い高山病には必ずなっていた。頭痛から始まり食欲不振になるが、無理すれば食べられた。山では、食べられさえすれば動ける、歩ける。その内に、身体が低酸素になれてくる。
 前日、タンボチェ(3860メートル)で、かなり激しい下痢になった。下痢で困るのは、お尻の穴がゆるくなり、オナラかと思えば中味がでてくることだ。しんどい時に、また下着から取り換えなくちゃならない。しかも、山には最低限の下着しか持って来ていないし洗う時間もない。これからヒマラヤに行く人は、老人用オムツを数枚持っていった方がいいかもしれないな。
 ディンボチェ(4410メートル)への登りは、スローペースではあったが、なんとか無事にこなせた。昼食も少しだが食べられた。ところが、夕食がだめだった。食欲を図るためお茶漬けにしたが、数口食べた後、突然吐き気がした。外へ走り出て嘔吐。身体中から冷や汗が出た。インスリンを打ったばかりだったのでミルクアメをなめた。お湯さえ飲みたくない。落ち着いてから、歯をみがき、早めに、湯たんぽその他で暖かくして寝た。9時頃だったと思うが、胃がキリキリ痛み、呼吸も苦しくなり、目が覚めてしまった。酸素が欲しくなったが、皆をおこすのは悪いので我慢し、ゆっくりと大きく深呼吸して、朝を待つことにした。
 それでも状態が一向に良くならない。12時頃には深呼吸もできなくなり、ハッハッハッと、呼吸が短くなり出した。隣で寝ていた平川さんが気付いて、日下ドクターを呼んでくれた。ドクターの応急手当(低血糖用の注射など)が効いたらしく少し楽になった。酸素ボンベを使いたかったが、その時あいにく、7月に結婚したばかりのサーダー(シェルパ頭)が、隣村で働いている彼女に会いに出かけていて不在だったのであきらめた。明日からの行動がある皆には寝てもらい、大きく大きく、深く深く、ゆっくり息をしながら、激しい胃痛と頭痛に耐えた。いろいろなことを考えた。まず、全く食べられる状態にないので今回のトレッキングはあきらめる。一人でタンボチェまで下りて、皆が帰るのを待つか。診療所があるペリチェへ行くか。或いは、すぐヘリを呼ぶか。早く朝が来ないかな、夜が明けないかな。時間のたつのが遅い、実に遅い。楽しい時は早く時間が過ぎてしまうのに。朝まで寝むれないで苦しみ悩んだ末、結局、症状も良くならないし、水さえ飲めない状態なので、ヘリを呼んでもらうことにした。私一人が下山すれば隊の行動は計画通り続行できる、とも考えた。香西さんの遺骨と山岳部バッチを入れた小袋を、亀井君に託した。バラサーブ(隊長)は平川さんに頼んだ。

 ディンボチェには、ヘリポート(単なる平らな広場)がいくつかある。9時頃、ヘリの音を聞きつけたサーダーが「来た」と言うので、少し離れたヘリポートへ移動した。しかし、それは他へ行くヘリだったようだ。横になって待つしかない。見送りに来た日下ドクターも体調が悪そうだ。38度以上熱がある、と言う。
 12時15分頃やっと5人乗りヘリが来た。そのままカトマンズへ送ってくれるものと思っていたが、10分間ほど乗っただけで、ルクラ空港に降ろされた。パイロットが「緊急の救援要請が入ったので、しばらくここで待て」と言う。1時間半も空港の隅で待たされた。元のヘリが来るものと思っていたが二人乗りの小さなヘリが来た。座席にいっぱい積んだ荷を降ろした後、乗り込む。私の隣へなぜか、サーダーらしき若いネパール人も乗ってくる。多分ヘリ会社とコネがあり、タダ乗りして来たのだろう。後で請求されたヘリ代は6580ドルだった。1時間1880ドルで、3時間半利用したことになっていた。ムチャクチャな金額だ。往復の時間料金は普通だろうし、積み荷やタダ乗りも許せるが、寒い中、野ざらしの飛行場で待たされた時間までチャッカリ入れている無神経さには驚くばかりだ。
4,50分でカトマンズに着いた。頭痛はおさまり胃痛も和らいでいたが食欲はない。ホテルで、先に下山していた松野ドクターと会った。松野君が買い物に行っている間に、久し振りのシャワーをあびた。身体が生きかえるようだ。午後5時頃、現地の旅行社が頼んでいたネパール人ドクターが来た。彼は12年間東京へ留学していた医師で日本語も流暢にしゃべる。診断書だけ書いてもらうつもりだったのに、診察の結果、「肺に水がたまっているようなので、すぐ入院しなさい」と言う。あわただしく用意して、6時半頃迎えに来た救急車で市内の病院へ向かった。松野ドクターも同行してくれた。ネパールでは救急車がサイレンを鳴らしても他の車はよけてくれない。多くの車やバイクで渋滞の中、タラタラと進む。研修医が一人と助手が乗っており、酸素ボンベはあるが他の医療機器は見当たらない。
 病院へ到着すると、玄関に車イスが用意されていた。3階の集中治療室へ運ばれた。扉には確かに、<集中治療室C>と書かれてはいるが、実際は単なる個室だ。2つのベットがあり、トイレとシャワー室が付いている。酸素ボンベもある。その内に、電話機や心電図・脈拍機器、点滴装置などが運び込まれてきた。ベットで横たわっていると、古い移動式レントゲン機を持ってきて、背中に冷たい板を当てる。松野ドクターが、専門のレントゲン写真を読み取り、英語で説明文を書いてくれた。
 私の担当になった美人看護師(ネパールではシスターと呼ぶ)は、年齢が21才で、名前はレシュマ。注射の打ち方も上手で、やさしく声をかけてくれる。しかも一部日本語で。かつて3ヶ月ほど学習したことがある、とのこと。こちらも知っている限りのネパール語をまじえて英語で話しをする。今回のネパール旅行で唯一の良い出来事だった。また一期一会の出会いが出来た。ネパールに4人目の子供(3人の息子と1人の娘)ができたようだ。長くあわただしい1日がようやく終わり、夜11時すぎ、点滴と酸素吸入を続けながら、就寝体勢に入った。おやすみなさい。

 熟睡とまではいかないが、よく休めた。11月8日は土曜日だった。朝の光で目が覚めた。ネパールでは、日曜でなく土曜が休日となる。日本との時差は3時間15分。6時頃レシュマが、「朝食は何を食べたいですか」と言うので、あまり食べたくはないが、野菜スープとパンケーキを注文した。結構食べられた。一安心だ。8時半過ぎだったか、夜勤明けで帰宅するレシュマが挨拶にきたので、ジャンガム(かつて1年間ほど高松で農業研修生として住んでいたことがあり、2001年のアンナプルナBCトレッキングを世話してくれたネパール人)に電話してもらった。
 午前中、ネパール人ドクターが2人来た。ドクターはよく来る。後で分かったのだが、外国人患者だと来るたびに5000ルピー(約7500円)もらえるから、いい収入になる。しかも、5~10分しかいない。日本へ帰る松野君が寄ってくれた。家には言わないでくれ、と頼んだ。「川田さん、1ヶ月は禁酒ですよ」といって帰った。酒なんて飲みたくも無いし、飲めない状態なのに、無意味なお言葉だ。昼食はチキンスープを食べた。順調に回復しているように思えた。午後ジャンガムが見舞いに来た。体調も良いみたいなので、10日に退院した後は一緒にチトワン公園へ行って象に乗って遊ぼうか、と計画した。隊員がカラパタールから帰って来るのを待ち、皆で一緒に日本へ帰ろう、と思った。ところがドッコイ、夕方から体調が悪くなり、また食欲不振。でも何か食べる方が良いと考え、ネパールうどんを注文した。しかし、香辛料がきつく身体が受けつけない。ネパール茶だけ飲んだ。またまた不安になった。
 夕方5時から勤務についたレシュマが、度々顔を出してくれたのが救いだった。いろいろな話をして、すっかり仲良くなった。親同士が決めたフィアンセが今東京で研修中とのこと。お父さんの仕事の関係で、今までに行った国は、香港、タイ、シンガポールだそうだ。弟はカトマンズでエンジニアの学校へ通っている。今度私がネパールに来た時は、自宅に招待してくれネパール料理を作ってくれると言う。「貴方は何才ですか」と聞くので、「61才だ」と答えると、びっくりした顔をした。40才ぐらいに見える、と言う。若く見える、しかも40代とは、うれしい限りだ。他のシスター達にも、40才から45才ぐらいに見えたらしい。確かに、ネパールではなぜか早く年をとるようだ。60才をすぎたネパール人は、外見も中身も完全な老人になってしまう。これから、お互いにメールで情報交換することになった。

9日の朝になっても食欲がわかず、ミルクティーとビスケット2枚をやっと食べた。昼食は、ジャンガムが近くのレストランから、香辛料抜きのネパールうどんをもってきてくれたが、やはり受け付けなかった。これではダメだと判断し、体力が残っている内に日本へ帰ろうと考え、翌日のチケットを手配してもらうことにした。しかし満席で、11日の便しか取れなかった。
 翌日の10日に退院し11日に帰国する旨、ドクターに伝えてあったにもかかわらず、夕方6時頃になって、突然、介護士が車イスをもって迎えに来た。今から心臓エコーをとる、と言う。寒い部屋でエコーをとったドクターが、驚いたような声で「30%~」と言っている。そして、「貴方は飛行機に乗ることができません。日本から主治医を呼びなさい」と言う。今更そんなこと言われても困る。この病院を紹介したドクターに連絡を取ってくれるように伝えた。心臓から血液を送り出す力は、普通の人は60%ある。かつて心筋梗塞になった私は50%だ。それが30%とは、機器のせいなのか、その時心臓の力が本当に落ちていたのか、今となっては分からない。
 そのドクターが、いくつか新しい薬を処方した。心臓の薬は持ってきているので必要ない、と断ったが、何かわからない薬を注射された。9時過ぎだったと思うが、レシュマが食事に行って室で一人になっていた時、突然身体がゾクッとした。風邪をひいたかな、と思った。ところが、そのゾクッという感じが消えない。消えないどころか身体全体に拡がり、ガタガタ震え出した。心臓と指に結んでいた機器が、ピーピーと異常音を発しはじめた。この室にナースコールはない。大声で人を呼んだが誰も来ない。少し離れた所にある電話機まで行き、ナースステーションにかけようとしたが、指が震えて番号を押せない。しかたなくドアをドンドンと力いっぱいたたいた。しばらくして4階から、やっと研修医やナース達が数人駆けつけて来た。再びベットにもどされた。身体がどんどん冷たくなる。震えもひどくなり、痙攣状態。死を感じた。なぜか、「こんなに遠くまで遺体をとりにくるのは大変だろうな」と思った。
 病院近くに住んでいるシニアドクターが飛んできてくれた。応急手当。口に酸素吸入器をあて、舌下錠を飲み、数本の注射をされた。韓国製の暖房機で室温を高めていた。1時間ほどで、体温がもどり震えも止り落ち着いた。又生き残った。ドクターが説明するには、少し前に打った注射液(抗生物質)が私の身体に合わずショック状態になったのだろう、とのこと。その後は、朝まで一晩中、研修医とレシュマがつきっきりで看てくれた。私が、「死ぬかと思った」と言うと、レシュマは手を握って、「その時は私も死ぬ」などと涙がでるようなことを言う。責任感の強いシスターだ。それでは命がいくつあっても足りないだろうに。

何事もなく11月10日の朝を迎えられた。昼までには退院する予定だ。ジャンガムが来てくれ、手続きをし、カルテとレシートを要求。請求書を見てびっくり仰天。何と約12万ルピー。前日にジャンガムから、どのくらいかかるのか、病院に聞いてもらった時は、2万ルピーもあれば充分そうだった。室代が1日当たり1万2千ルピーとなっている。前日には、3千ルピーと言っていたのに。ジャンガムが見て、薬代も高いと言う。しかし、とにかく支払いをしないと退院させてくれないので、急きょ、旅行社へ電話してルピーを持ってきてもらった。
 正午過ぎ退院し、ホテルに預けていた荷物を受け取り、旅行社へ行って精算した。日本式レストランで鍋焼きうどんを食べた。何とか食べられてホッとしていた時、高松の家からジャンガムの携帯に電話がかかり驚いた。胸騒ぎがして、かけたとのこと。その日の夜はデュリケルにあるジャンガムの家に泊めてもらった。ゆっくり休むことができた。
翌11日の昼、ジャンガムとレシュマの見送りを受け、カトマンズ空港をあとにした。レシュマが、最後に、白いスカーフをかけてくれて、「 I miss you. Do not forget me. Send me your mail,prease.」。 心の優しい美しい娘とも、お別れだ 。その後、バンコク経由で長い旅をして、12日の早朝、6時半頃、なんとか無事に関空にたどり着いた、という、何ともお粗末な次第である。

 今回は全く自信を喪失した。これから、体力の回復より気力の回復に時間がかかりそうだ。ネパールへはいつでも行けるが、再びヒマラヤに行けるのだろうか。果たして6000メートル以上の地に立ち、白き神々の嶺を仰ぎ見ることが出来るのだろうか。