大好きな大韓民国

大好きな韓国 1968年から2004年まで

今、日本は大変な韓流、大韓民国ブーム。旅行者も増える一方だし、テレビの韓国番組もいっぱい。ほとんど毎日何かやっている。古くから韓国と関わって来たわたしは、多少の戸惑いを感じながらも、本質的な韓国大好き人間として、大いに歓迎だ。

 冬のソナタが今回のブームに火をつけたらしいが、ソナタは韓国語でヨンガといい漢字の恋歌をハングル読みしていることは、あまり知られていないようだ。ついでに、眼鏡の貴公子と言われて、今日本のおばさま達に騒がれているガム・スターの人気は、本場の韓国ではそれ程でもない、ことも日本人は知らない。また、今日本で稼ぎまくっている韓国人スターのユン・ソナは、本国の人達にはあまり知られていない。韓国には、もっともっとモテル素晴らしい俳優が星のごとくいるようだ。今ソウルで有名な日本の女優は、NHK教育テレビにでていた、かわいい女の子、韓国のテレビコマーシャルにも出ている。韓国と日本の感性の違いから来るのかも知れない。

でも、冬ソナのユン・ソクホ監督をわたしは大好きだ。彼が日本へ来て言った言葉、<冬のソナタが、在日同胞のイメージアップに貢献できたのなら嬉しい>、と。 なかなかの人物だと思った。そこまで考えられる人間はあまりいないと思う。何故在日朝鮮人が六十余万人も住んでいるのか知らない日本人には、彼の言葉の意味が分からないだろう。それにしても、彼の映像は美しい。まだ会ったことないが、多分、心がやさしく、純粋で、夢多き男なのだろう。

今年の韓国は、何と言っても<チャン>文化。チャンという言葉は二○○四年に突然現れ、今ではテレビや新聞の広告、雑誌などどこでも見かける流行語になった。日本語でチャンは、可愛い人につける愛称だが、韓国語では、最近<最高>という意味で使われだした。まず、モムチャン。モムは身体のこと。だからモムチャンとは、スタイルの飛び抜けている人につける。三十八歳の二児の母親だった普通のおばさんが、無惨に太ってしまった体を改良、筋肉トレーニングで二十キロも減量し、モムチャン・スターになってしまった。今、このモムチャンおばさんは、人生の春を遅れて見つけたと言う意味で<春の日おばさん>というあだ名をもらい、ダイエット食品のモデルになり、全国の女性から羨ましがられている。歌のうまい人は、ノチャン。頭の良い人は、モリチャン。顔が美しい人は、オルチャン。何でも後ろにチャンを付ければいい。日本でも流行りそうだ。

わたしが初めて韓国に興味を持ったのは、今から三十七年前、早稲田大学政治経済学部に入学した時だった。第二外国語として、当時マイナーだった中国語を選択したため、ロシア語との合同クラスの二十六組になった。東南アジアからきた五人の留学生は当然そのクラスに入ってきた。そこで、唯一無二の親友・趙永秀さんと出逢った。趙さんは韓国の大学と軍隊にも入っていたので、わたしより年上だったが、すぐに友人つき合いとなった。趙さんを通じて大勢の韓国の人達と知り合うことが出来た。おいしい韓国料理もいっぱい食べることが出来た。ものの見方・考え方の違いや、文化の違いに驚かされた。ハングルを学んだ。みんなで飲んで食べて、マージャンや碁・チンチロリン・花札で遊び、そして時々、試験勉強や喧嘩をしたことを、つくずく想い出す。

 一九六八年の冬、初恋と失恋をイッキニ体験した。いまだに、何故、失恋したのか理解できないでいる。観音寺と東京に別れた後、毎日のように熱いラブレターをくれていた。大学から帰って郵便受けを見るのが楽しみだった。当時、純粋なわたしは、もう僕はこの子と結婚する、とまで思ったのに。女性は常に冷静だから、日常と非日常を判断したのか。おんな心は解らない。もし今も生きているなら、すでに時効だから、教えて欲しい。

その年の春休みを利用して、親友の国・大韓民国へ、一ヶ月間、傷心旅行に行った。初めての外国旅行から帰国して直ぐに書いた原稿が、このあいだ昔の段ボール箱から出てきてびっくり。すでに赤茶けた四百字詰め原稿用紙だった。読んで更にびっくり。二十歳の学生としては、なかなか良く書けているのだ。眠ったままにしないで、なんとか活かしてやろうと思った。そのまま紹介しよう。

初めての外国・大韓民国

一九六八年二月二十九日より三月二十八日まで

私が韓国旅行を思い立ったのが去年の十月頃。近くて遠い国・韓国。地理的には最も近い外国でありながら、人間感情・外交関係において最も遠い国韓国。四十代以上の日本人は、表面はともかく、多くの人が朝鮮人に対してある蔑視感情をいだいている。二十余年前まで日本は朝鮮をわがもの顔に支配していた。その時代に生まれ、その時代の教育を受け、その時代の環境に育ってきた人々にとって、それは当然かもしれない。同じく四十代以上の朝鮮人は、日本人に対してある卑下感と強い憎悪感情をいだいている。これもまた、同じ理由において当然であろう。逆に、三十代以下の日本人は韓国をあまり知らない。過去の歴史も現代の韓国の状況もよく知らないし、知ろうともしない。一九四五年八月以来、日本は百八十度の転回をした。それ以後の教育を受け、それ以後の環境に育ってきた我々にとっては植民地時代のことなど知るべしもない。また親達も子供に語り伝えたりはしないし、学校でも教えない。これと打って変わって、韓国では三十代以下の人々も、過去について非常によく知っている。学校教育において十分すぎる程に教え込まれてきたし、家においても親達から語り伝えられてきた。そのようにしてできあがった概念を持つ韓国の若い人達が、日本と聞いただけで反抗感情がおこってくるのは自然であろうと思う。

しかし、日本人も韓国人も、いつまでもしみついた観念にとらわれていたのでは、両国はお互いに遠い国でおわるであろう。憎むべきは罪であって人ではない。過去であって現在ではない。両国民とも、過去の蔑視感情・卑下感情を押し込めるよう努力しなければならない。むやみやたらに敵対するのではなく、お互いに、近い国たるべく努力しなければならないと思う。日本は日本で韓国を子分国として扱ってはならないし、韓国は韓国で日本に対してへりくだる必要はないし敵対する必要もない。これからは、国と国との関係ではなく、人間と人間との関係で何事も進められなければならない時代だと思う。国という狭い枠にとらえられた考えは、もう改めた方がいいのではないだろうか。

一九六五年に日韓条約がまがりなりにも締結されて、日本と韓国との関係は表面的に一歩近づいた。しかし内面的にはどうであろうか。韓国民は、現在の日本をどういう目でみつめているのであろうか。これからの日本と韓国との関係をどのように進めて行こうとしているのだろうか。また、韓国民の生活及び思考方法はどのようなものであろうか。そのようなことを知りたくて、私は韓国へ行くことにした。

 今年になって急に朝鮮半島が緊張してきた。朝鮮に関する記事が新聞に目立つようになった。ゲリラ事件。それを誤報した日本の新聞社に対するデモ。これは日本ではあまり取りあげられなかったが、韓国では多くの人が非常に感情を害していた。私に接したほとんどの人からそれを言われた。また、プエプロ号事件も起った。日本にいると当時韓国は非常に緊張を呈しているように感じられた。私はビザがおりないのではないだろうかと心配した。また早稲田詩吟同好会の先輩も、私が韓国へ行くことを知って心配してくれて、韓国へ行ったら常に日本大使館と連絡をとっておくようにとさえ言ってくれた。二月になると金嬉老のライフル事件が起きた。この事件は日本で、在日朝鮮人問題ということで大きく取り扱われたが、韓国でも強い関心を引き起こしていた。韓国のある雑誌は、この事件に関してこういう見出しを載せてあった。「金嬉老は狂人かそれとも英雄か?」確かに韓国内には金嬉老を英雄視している人々がたくさんいた。皆、少なからずとも、よくやったという感情をもっていた。このように、いろいろと事件が多かった時、私は隣の、友人の国。大韓民国へ出かけて行った。

釜山

下関から釜山まで十五時間。飛行機だと博多から釜山までわずかに一時間。ほんの一っ飛びの所ではあるが、海を一つ隔てているだけあって天気がまるで異なっていた。午後一時ごろ板付空港を発った時は小雨模様のどんよりした天気であったが、釜山ではよく晴れていた。釜山は韓国で二番目に大きい都市だから飛行機も相当な設備と広さであろうと予想していた。しかし、空から見た釜山空港は、茶色の海岸に滑走路とあまり大きくない空港ビルが建っているだけで貧弱に思えた。空港に着くと突然言葉が変わった。今までは何とも思っていなかったが急に不安になった。一人だけ別の世界にいるように感じた。はじめて、自分は外国へやって来たのだ、自分は外国人なのだ、という実感がわいてきた。カワダという大きい日本語が聞こえた時ホッとした。友人の趙君が迎えに来てくれていたのだ。

 釜山の関税は非常に乱暴であった。特に近頃はいろいろな事件が続いているので厳しいのかも知れないが、それにしても腹が立ってしかたがなかった。ボストンバッグの底まで無造作に出してしまい、紙に包んであった物はムチャクチャに破り捨てて、中味を調べた。菓子箱は蓋を開け手でつまんでみたりした。友人の話しではソウルの関税はこんなにひどくはないそうだ。

手続きを終えて外へ出ると、待ち構えていたようにタクシーの運転手が五六人寄ってきた。皆みなりが貧相であった。タクシーの基本料金は六十ウォン。日本円では八十円相当である。タクシーで大統領の別荘がある海岸を回り釜山駅へ向かった。見わたす限り茶色一色、地面も山も。道路は舗装されてなく、山は禿げている。木は燃料に使われるため切り尽くされてしまったのだそうだ。家々は小さくみすぼらしい。服装もあまりよくない。小さい子供達が自転車の車輪を転がして遊んでいた。十年ぐらい前に、同じような遊びを高松でもやっていたのを覚えている。日本からやって来たので、どこへ行っても軍事色が非常に目につく。軍人、軍用トラックやジープ、かまぼこ型兵舎、軍事訓練所。海岸は広々として美しかった。夏になると海水浴客でうずまるそうだ。二月の終わりで冷々とする気候だというのに、多勢の人達が砂浜で遊んでいた。弓の練習をしたりギターを弾いたりしている者もいた。日本の冬の海岸と比べて少し異様な感じがした。

やがて舗装された広い道路に出た。交通量も多くなった。自動車もバスも古い型のものばかりだ。五十米おきぐらいに、鉄砲を肩にかけた黒い制服の警官がいた。駅に近づくにつれて人がふえ、家がぎっしりと建ち並んでいた。露店市場があり、電車が走っている。しかしやはり、ごみごみしていて貧相な都市である。つい二時間程前まで福岡のような大きなビルが建ち並ぶ大都市にいたので、あまりにも差が目立ちすぎる。釜山駅といっても、想像していたよりもずっと小さかった。木造の古い建物だ。駅の構内には百数十名もの人が列をなしていた。驚いて尋ねてみると、それは明日乗る汽車の切符を買うためだそうだ。韓国では前日に切符を売る制度になっている。特に明日は三月一日なのでこのように列をなしているのであろうと思った。すると私達は今日乗る切符を買えないはずなのに、友人は大丈夫だと言った。実はやみ売りがあるのだ。正額では釜山からソウルまで特急九百二十五ウォンであるが、それを一千二三百ウォンで買うのだ。十歳から十五歳ぐらいの子供達が新聞を売ったり靴みがきをしている。新聞は四ページか八ページで十ウォンか十五ウォン。靴みがきは二十ウォン。非常に安いが乱雑である。質のよくない靴墨をベタベタ塗り、それをボロ布でふき、最後につばきを少しかけて光らして仕上げをするのだ。

午後の四時に釜山発。日本のようなプラットホームはなく下から乗り込むのである。汽車も旧式である。韓国では一等がなく、二等と三等がある。窓から農家が見えた。土壁で、屋根は瓦とわらが半々ぐらいである。またこの辺は屋根の棟がまっすぐだが北の方へ行くにつれ棟が皿型にそっている。まもなく一人の中学生がビラを配ってきた。それには、自分は鉛筆を売って学費をかせいでいるのだが援助を願う、という意味のことが書いてあった。しばらくして、その少年が鉛筆を売りに来た。そしてビラを回収した。大邱に止まるとリンゴを持った人がたくさん乗り込んできた。大邱はリンゴの名産地なのだ。汽車が駅で停止するごとに、乗客が増え通路もいっぱいになった。軍人・学生が多い。韓国は三月から新学期が始まる。通路に立っている乗客をかきわけて、労働者風の男が売り歩いている。ビールや韓国製コーラ、リンゴジュース、牛乳、薬飲料水(グロンサンと書かれていた)、済洲島産ミカン、カステラ、タマゴなど。

予定より三十分遅れて十時三十五分にソウル駅に着いた。皆、急いで出口に向かっていた。不思議に思い友人に聞いてみた。帰りを急いでいるのだそうだ。戒厳令がしかれ十二時以後は外出禁止。しかもタクシーが少なくなかなかつかまらないということ。事実、車が三台しか見えないのに三十人ぐらいが列をなしていた。また、すでに車に人が乗っていてもドアを叩いて止めさし、相乗りを交渉している。バスは非常に多い。人とバスが混雑して身動きがとれず、ブーブー警笛を鳴らしている。私達もタクシーの相乗りをして友人の家へ向かった。日本と違って韓国では、相乗りをしても、それぞれが料金を正額支払わなければならない。だから、相乗りをすれば運転手は大いにかせげることになる。ソウルは釜山と違って底冷えがした。風も膚を刺すような感じがした。さすが大陸性気候だ。

ソウル

三月一日は韓国で最も大きい記念日の一つだ。一九一九年三月一日、当時の日本帝国主義に対して立ち上がった朝鮮独立運動を記念する日。日韓条約が結ばれるまでは、毎年あからさまに反日演説が行われていたが、それ以後は和らいだそうだ。中央庁で記念行事があり朴大統領の演説が行われることになっていた。私は少し遅れて行った。中央庁の周辺は、自動小銃や鉄砲を構えた警官や騎乗兵で包囲されていた。演説は中央庁の中の広場で行われていたのだが、その中央庁へさえなかなか入れてくれない。一人一人身分証明書を調べている。やっと入門できたが広場へは行けなかった。数人の警官によって皆通行止めをされていた。大統領が帰るまではだめだという。大統領の警護は常に厳重だが、ゲリラ事件があって以来は特に厳しいそうである。こういうことは今の日本ではあまり考えられない。権力とか武力の威力・恐怖というものがじんわりと感じられた。警護の厳重さは予想されていたが、一方、行事の規模は全く予想外に小さかった。来る前に日本にある韓国旅行社の人も、今年は大きな行事が行われるでしょうと言っていたし、私もソウルでは何万人もの市民を集めて各所で集会が開かれるだろうと考えていた。しかし、ただ中央庁で二千人ぐらいの人々を前にして大統領の演説が行われたにすぎなかった。

集会が終わり人々が帰りかけた頃広場へ行くと、二人の美しいチマジョゴリを来た女の人に会った。昼は中央庁の職員として勤め、夜大学で勉強しているとのこと。写真を取らしてほしいと言うと、「こんな日に日本人と一緒に写真を取るなんて私たち非愛国者ね。」と冗談を言いながら並んでくれた。日本語を少し知っていた。今勉強しているという。日韓条約締結までは日本語を習うことは禁止されていたが、現在では多くの人が習っているそうだ。人民は時代の流れに乗るのが早い。その二人が中央庁の内部を案内してくれた。帰りには窓から手を振っていた。

 ソウル市内の人々の服装は日本とあまり変わらない。洋服がほとんど。中年過ぎの人の中には韓国服であるチマジョゴリを着ている人が多い。そして、ちらほら色彩豊かなチマジョゴリを着た女の人を見かける。日本の晴着と同じである。また、ミニスカートでさっそうと歩いている女性もいる。特に韓国の銀座といわれている明洞には多く見られる。日本の小学校に当る国民学校、中学校、高等学校には制服がある。男は日本の学生服と同じ。女は丸く白いえりのついた紺色の服とズボン。ズボンは裾を絞ってある。夏はスカートである。

韓国には食堂と喫茶店が多い。韓国食堂はいつもよく繁盛している。うまくて安い。韓国人は外食を好むらしい。代表的な料理にプルコギ、ビビンバ、カルビタン、コムタン、マンデウ、冷麺などがある。プルコギは焼肉のことであるが非常にうまい。韓国は牛肉が日本より一段とおいしいようだ。ビビンバは日本の五目寿司と形が同じである。カルビタンやコムタンは肉スープの中にごはんを混ぜてある。マンデウはスープの中にシューマイのようなものを七八個入れてある。冷麺は日本のソーメンを少しかためにしたようなもの。そしてこのような料理に、いろいろな種類のキムチや野菜、おかずがただでつく。普通の家庭の料理はこれとだいぶ異なる。

中華料理店も数多くある。ただし料理そのものは、日本の中華料理店のと全く違う。焼飯にしても、麦がたくさん混ぜてあり、味も異なる。麺類と言っても日本のようなラーメンはなく、うどんとスパゲティの中間のようなものである。日本料理店もたくさんある。味は日本のよりもうまいぐらいだが、値段が非常に高い。喫茶店は多いが、小ざっぱりした所は少なく、室の広さに比べて椅子の数も多く大雑把であった。高校生は禁止されており、もし来れば日本と違ってすぐに注意され追い返される。警察がうるさいからだそうだ。韓国では警察の目がよく行き届いており、暴力団もないとのこと。あるとき、玉突き屋で遊んでいた時、十七八歳ぐらいの若者が酔って、自分の手が切れるのもかまわず窓ガラスを割り始めた。すると二三分もたたない内に警官がやってきた。

 韓国の映画館は日本と異なった点が多く、休日平日をとわず毎日多くの人が見に行っている。特に夕方などはなかなか入場券が買えない。市内の名のある映画館は全て全席指定である。そこである商売が発生する。もし見たい時間の指定券が買えない場合は、次の回の指定券を買い、付近でガムを売っている女の人の所へ行き、リベートを渡して交換する。あるいは、直接割増料金で購入するのである。ダフ屋はガムを売っているが、それは警察をごまかすための方法なのである。映画はどこでも一本立て。百ウォン前後。メガネをかけて見る立体映画もできていた。外国映画ではウェストサイドストーリー、ローマ帝国の滅亡、特攻大作戦、男と女などがあった。日本の映画は一つも上映されていない。韓国映画には喜劇、メロドラマ、伝説映画、思想的映画などいろいろある。

思想映画は学校から集団で見に行くか、特別推薦映画として奨励され家族と見に行く。政府の思想教育の一環である。ある時、大佐の息子という題名の、南北問題を取り扱った映画を見に行った。国民学校や中学校の生徒がたくさん来ていた。上映中、南の軍隊が北の兵隊をやっつけたり南の人が有利な立場にたつと、一斉に拍手が起った。韓国の反共教育は徹底している。反共思想は絶対的なものである。現在の韓国人は、二十代以上の人達は皆、実際に共産主義と戦った経験、そして一時は占領されひどい目に会わされた経験を持っている。そういう人達にとって反共ということは身をもって感じるのであろう。また子供達に教えようとするのも当然であろう。しかしそれではいつまでたっても南北の融和は成し遂げられない。昔の例をとって頭から反共思想を教え込むのではなく、自分で考える力を養うよう教育しなければならないと思う。これは北朝鮮にとっても同じことだ。南北共、国民に反対思想を教え込み軍事力を強化したところで何ら得るものはない。共に世界の進歩から取り残されるだけであろうと思うが。

 韓国は教育がよく普及している。六三三四制は日本と同じ。ただし義務教育は国民学校の六年間だけである。その後の、中学校・高等学校・大学へは入学試験による。また、韓国では一部の学校を除いて、国民学校は男女共学であるが中学校・高校は男女別々である。これは儒教の影響による。私はある日、ソウル慶熙国民学校を見学した。鉄筋コンクリートのりっぱな建物である。入口の掲示板には日本の小学生が書いた絵がはられてあった。一二年生の教室は、八人用の机が置かれてあり、真中には石炭ストーブがあった。フランス人形も飾られており小奇麗であった。三四年生の教室は二人用の机。後ろには生徒が書いた反共ポスターが展示されていた。一月のゲリラ事件に対して生徒に書かしたものだ。藪の中から出てきた化物の絵、ゲリラを射殺した絵、金日成を批判した絵、軍服を燃やしている絵あるいは大衆が反対デモをやっている絵など、いろいろな表現方法でそれを表している。これまでに生徒へ教え込まれた反共教育の影響がうかがわれる。五六年生の教室には一人用の机が並べられていた。この学校を見学していた時、一人の先生と知り合いになりいろいろ教育内容が聞くことができた。科目は日本とあまり変わらないが一つだけ大きな特色がある。それは、思想という科目があり正規の成績に含まれるということだ。成績の評価は日本と同じく五段階で、秀・優・美・良・可である。秀と可が五パーセント。優と良が二十パーセント。

韓国の大学には一流二流三流とあり、一流大学のほとんどがすばらしい建物・施設・広さを持っている。特に有名な大学には次のようなものがあげられる。日本の東京大学、早稲田、慶応に匹敵するソウル大学、高麗大学、延世大学。そして女子学生のメッカ梨花女子大学。延世大学は学部別の数々の校舎の後に学校の山を持っている。また、郊外にある慶熙大学は大きな競技場を二つも持っている。そこには四階建てのりっぱな大図書館があった。内部は各課別の小さな閲覧室がたくさんあった。韓国は人口に比べて大学の数が非常に多い。進学率も高い。韓国の学生は中学校からすでに受験受験で日本の学生よりも入試に苦しめられている。浪人も多く日本と同じで予備校が繁盛している。それは何も家庭に余裕があるからではなく、大学を出ていないとなかなか職につけないためである。韓国は現在、労働力が余っており、失業者も多く就職が非常に困難である。私はソウルで、昼間韓国で一流の第一銀行に勤めている大学三年の女学生と知り合った。彼女は今年入社したのだが、その時の入社試験には定員一人に対して八十人もの女性が応募したそうである。

 現在、韓国はまだまだ産業が遅れている。国内の余った労働力を吸収するには、もっともっと産業の育成が計られなければならないだろう。政府も今「増産・輸出」をスローガンにしている。若い人達にも、それに対する意欲がうかがわれた。私がオリエンタルビール会社の工場を見学した時のこと。韓国には2大ビール会社がある。オリエンタルビールとクラウンビールであり、それぞれ市場の六十パーセントと四十パーセントを占めている。まず麦芽を生成する工場へ行った。その時案内してくれたソウル大学農学部出身の若い労働者は、目を輝かせてこう語った。 韓国で麦芽をつくるところはここだけです。やがては輸出をしたいと考えています。またビール製造工場へ行った時も、ソウル大学出身の若い研究員が自信にみちた案内をしてくれた。全てオートマチックであった。機械はドイツ製と韓国製であった。韓国の会社と提携して進出している日本の有名会社には、パイロット万年筆、シチズン時計、ホンダオートバイ、ロッテガムチョコレートなどがある。ロッテ会社は韓国が本家であることを初めて知った。ラジオやテレビで、ロッテロッテと言って宣伝しているのを聞いて最初は驚いた。また、私がある韓国の商事会社を訪れた時、日本のある会社の商標をつけたナイロン靴下を見た。韓国は労働力が安いため、日本から一度輸出した原糸で靴下を作り、出来上がった製品をもう一度日本へ逆輸出するのである。

 ソウルは大都市で、日本の都市と比べて見劣りがするものではない。大きなビルが建ち並び、大劇場・大ホテル・デラックスなデパートもたくさんあり、明洞へ行けばいつも華やいだ空気でいっぱいである。また地下歩道がよく整備されている。それにもかかわらず、どことなく貧しい、遅れていると感じる。それはどこからくるのであろうか。市内を走っているタクシー、路面電車、バスなどがほとんど古い型の中古車だからなのか。身なりの粗末な子供達がたくさん目立つからか。タクシーは、昔日本の会社と提携して工場をつくり大量に生産されたシンジンコロナとかダットサンが主である。電車は乗車賃が五ウォン、バスは二十ウォンである。バスにしても日本であればすでに廃物にされているようなものが多い。ただし自家用車は、まだまだ少ないが最新型のりっぱな車である。また黒塗りのジープが非常に多い。

ソウルには、物売りや靴みがきをしている子供達がいたる所にいる。十歳前後の子供が多い。新聞、靴ひも、チューインガム、チョコレートなどを売っている。バスの中や喫茶店の中へ勝手に入って、そこに居るお客に一人一人売りつけている。ほとんどの子供は、つきまとって、ただ買ってくれ買ってくれと繰り返すだけであるが、ある時、上手にセールスしている子供を見かけた。十五六歳の仁丹売りであった。彼は、バスに乗ってくると、やおらバッグを開き何やら取り出し、乗客一人一人に配り出した。それは仁丹の見本であった。見本を皆に配りおえると、前に立ち大声で宣伝のための説明を始めたのである。まあまあ売れていた。靴みがきの子供達も、ほとんどの者は人通りの多い所で客を待っているだけだが、積極的な者は、サンダルを手に下げて喫茶店の中へ入ってくる。客がサンダルに履きかえて待っている間に、みがき上げてくるのである。子供の時から知恵を働かせ、弱肉強食の現実世界を生き残る訓練にさらされている。路端で、金をかけてバクチをやっている小さな子供達もいた。

日本は戦争が終わってすでに二十三年たち、その間に朝鮮戦争という経済的大飛躍の時があった。一方韓国は一九五三年に停戦協定が結ばれてから十五年、その間、常に莫大な軍事費が費やされて経済成長が抑えられてきた。その差がはっきりと現れている。

物売りの子供達の他に、いろいろな露店売りが数多く目につく。なんでもかんでも商売である。アメリカ軍のガム・チョコレート・缶詰などをかごに入れて立ち売りしている婦人。南京豆・アメ・菓子類を台の上に並べて座っている人。バンド・時計・ライター・革製品などを陳列して大声をあげている男。少し路地を入った所では、ひそかに日本の雑誌も売られていた。週刊誌が百ウォン、映画の友は四百ウォンと非常に高い。郵便局の近くの角では、リンゴ箱の上に、封筒便箋や紙・割ピンなどが置いてあった。駅の近くであれば、特に夕方以降は、リヤカーに物を積んだ人達や屋台でごったがえす。サッカリン茶・りんご・なまこや貝類・パン・タマゴ・その他いかがわしい雑誌や食物などが売られている。一つ目を引くものがあった。雨が降ると雨傘を売り出すのである。一本四十ウォン(日本の金で五十五円ぐらい)と非常に安いが機能にこと欠くことはない。竹の骨組にビニールを貼ったもの。たいへん便利だと思った。

韓国の市場は特異である。韓国では市場から小売店へ・問屋から小売店へというはっきりした流通機構があまりないようで、至る所に大小の市場がある。そこでは、あらゆる物が売られている。毎日の生活必需品や食料品をそこへ行って買うのである。ソウルにある東大門市場は特に大きい。道の両側に商店が軒を並べ、真中にも台を置き、種々の品物を売っている。その間をかきわけるようにして多勢の人が買い物をしながら行き来している。食料が並んであるところは乱雑でゴミゴミしている。ブタの頭がそのまま、蒸し焼きにされて売られているのを見た時にはギクッとした。

 韓国の人々の生活には、中国的なもの日本的なもの、あるいは欧米的なものが複雑に混ざり合っている。宗教は儒教を根底とし、仏教とキリスト教が多い。いたる所にプロテスタント教会カソリック教会が立っている。葬式は大部分が土葬である。棺桶を土中に埋め、饅頭型に土を盛り周囲を囲んだり碑を立てたりする。日本ではほとんどが火葬であるが韓国では火葬はまれである。他にも日本と特に異なっているものがある。韓国人は四という数字を特に嫌いエレベーターにも四階はない。また、日本では結婚をすると夫婦同姓になるが、韓国では結婚をしても女は姓を変えない。子供は父親の姓を取る。これは中国の慣習と同じである。

 三十六年あまり前の貴重な原稿は、残念ながらここで切れていた。最後まで仕上げて、何処かの雑誌にでも投稿すれば良かっただろうに・・・。そしたら今頃わたしは、有名なルポライターか左うちわの作家先生だったかも。その時、三十八度線近くのチョロンや、東海岸のサムチョク、南のチェジュドまで行って、当時としては珍しい体験をした。大韓民国という風土を初めて身をもって味わった。貧しいが、生き生きしていた。ものすごいエネルギーがあった。そのうち、惚けるまでには想い出し、続きを書き留めておきたいと思っている。多くの韓国人と知り合い、とても親切にされた。かつて日本人からひどいめにあわされた老人から、日本語で、涙ながら実体験を語られた。わたしが犯した罪ではないが、申し訳ないと感じた。一緒に飲みながら、涙するしかなかった。初めて会った人からご馳走になったり、あちこち案内してくれたり、中には土産物までくれたりした。なんで、憎い日本人にこんなに親切にしてくれるのか、不思議に思ったことを覚えている。貧乏学生を哀れに思ったのだろうか。

 早稲田の同級生・藤野から紹介された韓貞姫(ハン・ジョンヒ)さんがソウルのいろんな所を案内してくれた。梨花女子大を卒業してチョンノにある幼稚園で働いていた。とても優しい人だった。初めて会って、大学を案内してくれていた時、ふと小さな文具店に入った。何してるのかなと思っていると、切手付きの手紙を渡され、これに書いてお父さんとお母さんに出しなさい、と言うのだ。その思いやりに心が震えた。弟は延世大学の学生で、同級生にも紹介され、一緒に飲んだりした。彼女の自宅にも数回招待された。二三人お手伝いさんがいる、かなり大きな邸宅に住んでいたが、今頃どうしてるのかな。もう一度、会ってみたいな。当時は、お互い辿々しい英語で会話をしていたので、非常にもどかしい思いだった。今なら多少話が弾むかも知れない。

 その後、大学四年の夏、再び一ヶ月間訪れ、また新たな発見と戸惑い、そして楽しい体験をした。

一九七○年当時は、韓国の人達は簡単に日本に来ることが出来なかった。留学か、デパートなどへ研修名目の働き手として来るしか方法がなかった。今日本に来ている中国人と、状況的によく似ている。そのようにして来ていた韓国の女性に数人知り合い、趙さん達みんなでダンスパーティに行ったりしていた。二度目の韓国訪問の時は、その際友達になった三人の女の子が、ソウルの街や郊外をあちこち引き回してくれた。その内の一人は社長令嬢だった。運転手つきの車で案内してくれたり、送り迎えをしてくれた。そんな境遇の子が、日本に行ってみたいが為にデポートの売り子をしていたとは、ほんとに驚いた。もう一人の子は、ソウルから車で一時間くらい離れたアメリカ軍事基地の近くで、お姉さんがやってるスナックの手伝いをしていた。

韓国語の向上が目的で行ったが、いっこうに上達しないままに終わった。大学卒業後、韓国かアメリカに留学しようか迷ったが、結局、社団法人・中国研究所に入所し、十年近く、中華人民共和国にどっぷりつかってしまうこととなった。その間、一度だけ数日、藤野と一緒に訪韓した。趙さんの結婚式のために。ノランシャツを歌い、祝った。

 一九九三年八月、ワクワクしながら、本当に久しぶりに韓国を訪問することが出来た。やっと来たという感じだった。プサンから入国したが、あまりの変化に驚いた。高いビルにマンション群。緑の山や畑。ファション豊かに、賑やかな町並みを行き来する楽しそうな人々。新しいバスや乗用車の混雑ぶり。しかし、臭い、空気、雰囲気、行き交う言葉はたしかに韓国だ。身体がふるえた。迎えに来てくれていた趙さんの髪は真っ白だった。慶州を案内してくれた。仏国寺で、お坊さんから<一期一会>の書を書いてもらった。

大学を卒業後しばらくして、趙さんは韓国に帰り、いろいろ苦労したあげく、今、馬山(マサン)という五十万都市の中心街で大きな洋菓子店を経営している。市長も来るほどの名士になっている。そして、マサンの虎と呼ばれるほど、相変わらずの酒豪。わたしは、さしずめタカマツの猪。二人が飲み出したら、誰かの歌じゃないけれど、もうどうにも止まらない。徹底的に飲む。周りの迷惑など関係なく、いくところまでいく。違うのは、わたしはすぐ酒に飲まれてしまい梯子になるが、趙さんはあまり乱れず腰を据えてとことん飲む、死んでも飲むところ。韓国人の気性の激しさは、つき合ってみないと解らないだろう。いずれにしても、肝胆相照らせる親友の中の親友(チョンマル チング)・趙永秀さん、このような人とこの世で出会えて、わたしは幸せ者だと思う。もはや彼の友人はわたしの友人、彼の家族はわたしの家族同様だ。数年後には、わたしの娘達もマサンへ連れて行った。美味しいご馳走責めと豪華なホテルの接待に驚き、毎日キャーキャー騒ぎまくりだった。

一九九九年五月、趙さんの長女・ソンミの結婚式に、私たち夫婦は招待された。奇しくも結婚二十五周年記念の旅行ともなった。ソウルの街には、北京で有名な柳じょが、雪のごとく舞っていた。韓国の習慣として、ふつう結婚費用の大半は女性側が用意する。結婚が決まると、新婦は大忙しで、夫の夏冬用の背広から靴・時計等一式と、義父母にも同様の物を買いそろえ、布団や家具・家裁道具も全て新婦が準備する。その上、もし別居が許されれば、新居も新婦が用意するようだ。たいへんな物いりだ。何につけ韓国は、半端でないところがあるから大変だ。今や名士の趙家として、勿論、結婚式場はソウルの特級ホテルで、豪華絢爛に、五百人ぐらいが参加した。日本と異なり新郎・新婦の両親は正面の一番いい席に座る。藤野が韓国語でスピーチした。わたしは彼に名前を呼ばれたら立ってにこやかに微笑むだけでよかった。そして、夜おそくまで二次会・三次会と続いたが、あまり酔えなかった。

不思議なことに、同じ年の一九九九年十二月、急に、わたしの娘も結婚することになった。幸運にも、韓国名士の趙さんと違って、わたしの場合は費用がほとんど掛からずにすんだ。勿論、趙さん夫婦は、娘の披露宴のため高松まで来てくれ、共に祝してくれた。最後の最後になって、わたしが我慢できずホロッとしたら、それを見て趙さんも泣いた。その日は酔っぱらってしまった。趙さんもわたしも子供は三人ずつだが、孫はただ今のところ、趙さんには一人でわたしは二人。わたしの力じゃないが、とにかく、これだけは勝ってる勝ってる・・・。大人げない万年少年。

二○○○年以降は、年に二三回ぐらい訪韓している。行くたびに、なんだか故郷に帰ったような感じがするのは何故だろう。ひょっとしたら、わたしは、昔々、朝鮮半島から流れてきたのかも知れないな。韓国人の気性、食べ物、言葉、風土、文化・・・全てが大好きだ。

韓国には、ワリカンという習慣がない。年上か、男、或いはその時金を持っている者が払う。わたしが韓国へ行けば、ほとんどお金を使うことがないぐらいだ。日本の様にチマチマした感性はない。日本人は島国根性、中国人は大陸根性、そして、韓国人は半島根性というらしいが、わたしには半島根性が合っている。徹底して接待し、逆に、接待されるときは遠慮しない。すっきりして、気持ちがいい。

韓国へ行ったことがある人なら分かると思うが、韓国の若者達は非常に礼儀正しい。バスや地下鉄で、必ず年寄りに席を譲る。年寄りの前ではタバコを吸わない。目上の人と酒を飲むときは、顔を横に向けて飲む。物をあげたり受け取るときは、右手に左手をそえて出す。握手するときや酒をつぐときも同じ。だんだん廃れてきてはいるが、さすが儒教の国だと思う。その上に実は、軍隊の体験が影響している。韓国の男は、徴兵で約二年間、厳しい訓練を受ける。その間に、礼儀作法も鍛えられるようだ。趙さんの一人息子も、軍隊に入る前は仕付けが良くなかったが、入隊して三ヶ月で様変わりしたという。お父様という言葉使いをするようになった、とのこと。日本と違って、もともと韓国の父親の権威は絶大だが。

韓国語は、日本語と同じく、主語・目的語・述語とならぶ。もともとは同じ漢字の国だから、漢字のハングル読みをマスターすれば単語もすぐに豊かになる。同じ発音の単語もとても多い。だから、日本語と韓国語をチャンポンで話しても結構通じる。発音が似ているため間違って理解し笑うこともある。つい先日テレビで仕入れた話だが、コグマは、さつまいも。オッサンはクローゼット。モッコリはネックレス。ユン・ソナが日本にまだ慣れない時、韓国の女性もモッコリが大好きです、と言ったら大笑いされたという落ち話をしていた。どの外国語でも一緒だが、中級レベルまではいけても、壁があって、なかなか次の世界に入れない。はやく韓国の人たちと普通に話が出来るようになりたい。韓国でも最近また学校教育で漢字を教えだしたようなので、コミュニケーション方法が増え将来たのしみだ。

韓国料理はおいしくて安い。何か一品注文しても、八種類ぐらいのおかずやキムチが無料で出てくる。しかも、おかわり自由。どこかで、日本人は生きるために食べ、韓国人は食べるために生きると聞いたことがあるが、韓国料理は実に豊かで健康的だ。食事マナーは日本と反対。箸とスプーンを右横に縦に置く。食器を手にもつことは厳禁で、全てテーブルにおいたまま食べる。ご飯を食べるときも汁を飲むときもスプーンを使い、箸はおかずを取るときだけ使用する。昔、嫁いびりをするのに、姑が、わざと箸を持たせなかったという話がある。嫁はご飯と汁以外食べるな、ということ。日本のように正座して、お茶碗を手に持って箸で食べるのを、韓国人が見れば、刑務所の囚人のようだという。韓国では、男は勿論、女性もチマチョゴリを着ているときは、胡座をかき、片膝をたてて食事する。片膝で、お茶碗をテーブルの上に置いたまま、べちゃべちゃ喋りながら、箸で料理をつっつく今の日本の子供達の食事の仕方は、韓国へ行けば優等生となる。子供は、生死に関わること以外、ガミガミ厳しく躾なくても、世の中なんとかなるかも。子を持つお母さんとお父さん、子育ては、ゆっくり、ビスタリ・ビスターリ(ネパール語)でいこうよ。

ところで、来年は日韓国交正常化四十周年、相互訪問の記念すべき年。今年五月に訪韓した日本人の数は、前年同月比一一三%増の一八万五千人を記録したようだ。逆に、韓国からの観光客数も同比で昨年六月から十一ヶ月連続増と好調とのこと。しかし、個人的なことを言えば、この傾向にたいへん迷惑している。チケットを取りにくくなってしまったのだ。でも、良いことだと、納得している。

わたしは来年、再び原点に立ち返る。もし賛同者がおれば、たかまつ日韓交流協会を創立したいと思っている。日本と韓国の友情と交流を、香川と韓国との友情と交流を、今の韓流にのせて、もっともっと、ほっけの太鼓のごとく、どんどん押し進める一助になりたい。お互いに学び会い、お互いに助け合い、相手の長所を取り入れ自分の短所を補い、日本と韓国ともに高め合っていく、そのような関係を創りたい。怠りがちな韓国語にも一層磨きをかけよう。これからの夢は親友の国・韓国に開く。