04日 12月 2023
2023年11月22日~29日 「秘境の王国」とか「幸せの国」と言われるブータンに行ってきた。往復8日間の旅だがブータン国内は5日間だった。旅は4人のチームで、沢井隆も一緒。 ブータンは、人口が約80万人で、面積が九州とほぼ同じ。奄美大島と同じ緯度で、基本は亜熱帯性気候だが、高いので寒い。...
03日 1月 2021
 昨年末と今年4月に、両親が相次いで亡くなった。97歳と94歳の大往生だった。両親が住んでいた家をリフォームして、念願の檜風呂を作った。...
22日 8月 2019
玉山主峰へ登頂 2019年5月13日^~15日...
22日 8月 2015
 徳島県美馬市脇町という所に、山林を所有している。塩江街道を南進して、脇町内に入る前に、夏子ダムがある。その休憩所のトイレ横から、ダム湖に向かって真正面に見える山がそうだ。100ha近くある。主に樹齢が20〜100年の桧林。...
06日 10月 2012
 2001年以来5度目のヒマラヤ・トレッキング、そして7度目のネパール旅行。今回は、かつてヒマラヤの秘境と言われたムスタン王国の首都ローマンタンを目指す旅、しかも、初孫である12歳(高松第一学園小学校6年)の天明を連れての冒険旅行だった。学校の許可はもらえたが、果たして、12歳で富士山より高い4230mの峠を越えられるか、17日間の長期外国旅行に耐えられるか、不安ではあった。  10月6日の朝7時ごろ、高松からバスで関空に向かい、14時発の中国南方航空で直接ネパールへ。途中広州で2時間の乗り換え待ちがあったが、現地時間22時過ぎにはもうカトマンズに到着した。高松からネパールへ行くには、この便が一番便利で安いと思う。空港で1時間以上かかって40ドルでビザを取得し入国。相変わらず暗い街中を、でこぼこ道でガタガタ揺られながらホテルへ案内された。この日のレートは円高のため、1万日本円が10400ルピーだった。ほとんど日本円と変わらず計算しやすい。  翌7日は快晴。ホテルで朝食中に停電したが、ああ又かと、冷静に対応。午前中は市街を見物したり買い物、暑くてTシャツ1枚で良いぐらいだ。ジャンガムが昼食に高級猪肉カレー店を案内してくれた。猪肉はこの店しか売っていないそうだ。天明が非常に気に入りお代わりを追加していた。午後、国内便でポカラへ移動。かなり遅れたが4時半頃には到着した。ところが、預けていた荷物が1つ届かない。ジョモソンの学校に文具用品をプレゼントしようと用意していた箱が無いのだ。リュックでなくて良かった。空港の職員が、出てきたら後でホテルに届けると言ったが、結局見つからなかった。ネパールではよくあることだが、残念だ。夜はホテルの近くの中国料理店へ行った。そこにボランティアで来ていた中国人の張億さんと知り合った。広州の大学で日本語を勉強したとのことだ。  8日も快晴。6時にホテルへ迎えに来ると約束した案内人のアニールが来ないので、直接タクシーで空港へ行き、手続きしてジョモソンへ移動。後で聞くと前日酒を飲みすぎ寝坊したとのこと。これもネパールではよくあることと諦める。一便遅れてやってきた。ジョモソン空港には、これから我々を案内してくれるサーダーのLakpa Gelje Sherpaが迎えに来ていた。日本にも何回か来たことがあるそうだ。優しい、細やかな心配りのできる人だった。美しい雄姿のニルギリが見えて感無量、我々を歓迎してくれているみたいだ。  ロッジで朝食を食べ、隊を整える。隊員は沢井隆と菊川天明と私の3人、サポーターとして、サーダー1人、ポーター2人、馬方1人、そして馬3頭。白馬のマンボー(リーダーという意味)は常に先頭を行き、隊を賢く導き、私の命令もよく聞くすぐれた馬だった。やさしい茶馬のティカ(ヒンズー教徒が眉間に付ける赤い粉)は天明の専用となった。そして黒馬のカリは、隙あらばリーダーをとって代わろうとする気の強い馬だ。  午後から、いよいよトレッキングの開始。馬に乗って、ゆっくりと、強い追い風に背を押されながら、カグベニを目指す。アンナプルナ山塊とダウラギリ山塊の間にできた巨大なカリガンダキ大河をひたすら逆上って行く。ニルギリや、9年前に近くまで行ったテリッツォピークの白い山塊が美しい。3時間ほどでカグベニのロッジ、アジア・ホテルに着いた。夕食は、ピザやスパゲティ、チキン、ビールにスプライト。スプライトは天明専用で、毎回注文するので、随行のネパール人に「スプライト・ボーイ」というあだ名を付けられていた。ピザやスパゲティは350~400ルピーで、ビールが400ルピー、ミルクティー35ルピー、コーヒー45ルピーだった。ここ数年でものすごくインフレが進んだそうだ。全員、食欲旺盛で快調そのもの。このロッジは部屋の中にトイレとシャワーが付いており快適だった。携帯電話もつながる。  9日、晴れ。朝6時に起きて、ヒマラヤのビューポイントへ散歩した。村の坂道を20分ほど登った所にある。何処からかお経が聞こえてくる。眼下には、大河にせり出したカグベニの村と蕎麦畑が広がる。そして、遠くに、ダウラギリやニルギリ、テリッツォピーク、アンナプルナが見える。  8時に出発。まず、ムスタンへのチェックポイントで手続きをしなければならない。1人につき10日間で500ドルの入山料がいる。青空のもと、馬に揺られて爽快なトレッキング。ヒマラヤ襞、円錐型の土柱群、灌木で覆われた斑山を見ながら、カリガンダキ大河に沿って上って行く。10時頃、小さな茶店でティタイム。すぐ近くに大きなリンゴ農場があった。まだ苗を植えたばかりで5年後には収穫できるそうだ。途中の村には、蕎麦やリンゴ以外にキャベツ、とうもろこしを育てていた。12時半頃、チュサン村で昼食。風がかなり強くなり、目や鼻に砂ほこりが入る。マスクやサングラス、帽子止めは必需品だ。馬に乗りすぎ少し尻が痛くなってきた。14時頃、アッパームスタンの入り口ともいうべきムスタンゲートに到着。ここまでは1日2回バス(ジープ)が来ている。今から来年の春まで、ポカラやカトマンズ、遠くはインドまで出稼ぎに行く家族連れの農民たちが上から降りてくるのに出会う。大きな鉄の橋を渡り、急な坂道を上ると、そこがツェレ村(3050m)だ。  ここのロッジは、部屋の中には木のベッドのみ。水しか出ないシャワールームとネパール式トイレ(和式トイレを簡単にしたものの傍に尻を洗うコップとゴミ入れ、水入りバケツが置いてある)は外にある。テレビがある。インドの電波が入るので番組数が多いのに驚く。携帯電話も使える。夕食は、チーズスパゲティとマトン焼き飯、ニンニクトマトスープにする。今回はテントでなくロッジ泊なので、食事はメニューから選べる。沢井は少し頭痛が始まり、天明は風邪気味だが、まだまだ皆元気だった。  10日、晴れ。6時半に朝食。パンと卵にポテト、人参、ミルクティ。沢井と天明は高山病の薬、ダイアモックスを飲む。ダイアモックスは有名な高山病の予防薬で、呼吸中枢を刺激する効果がある。しかし本来は利尿剤なので、強度の高山病になり水も飲めない状態になれば逆効果となるので注意が必要だ。使用しても2,3日までで止めた方が良いらしい。  7時には出発。ツェレ村を上ると、周りに壮大なヒマラヤ襞の岩山が見える。ゆるい勾配の山道を登って行くと、大峡谷地帯に入る。急崖を削って山腹道を作っている。深い峡谷の向こうにギャッカルの村が見える。蕎麦畑が広がっている。村の上は、灌木に覆われた斑模様の茶色い岩山があり、その上奥に、5000~6000m級の黒い山群が連なり、更にその上奥には、7000m級のニルギリやテリッツォピークの白い雪山が眺望でき、8000m級のアンナプルナも少し顔を見せている。絶景だ。峡谷を抜けた峠で、暫時休憩。9時半ごろ、ポプラ林に囲まれたサマル村に到着。水量豊かな小川が村の中心を流れ、自然に癒される何か不思議な村だ。ミルクティが美味かった。村を出ると急な坂道を下り、次にまた急な崖道を登る。かなり疲れる、しんどい。11時半頃、ベナ着。小さな茶店で昼食。ニンニクラーメンを食べた。1歳半の女の子がシャツ1枚で遊んでいた。強く、たくましい娘に育つことだろう。天明はまだ元気いっぱいで、こんな3600mの高山で私と相撲を取ろうとする。これが後で、大きな禍の元になることも知らずに。長い上りの後、3800mの峠を越えると、風景が一変した。広大な山々、遠くに白い雪山の連峰が見える。  14時半、今日の宿泊地、シャンモチェに着いた。ホテルダウラギリというロッジに泊まる。しばらく休んでいたら、天明が、頭痛がする、気持ちが悪いと言い出した。高山病だ。来たなと思った。熱もあるので、風邪が悪化もしていたのだろう。そのうち嘔吐が始まった。でも呼吸はしっかりしているので、それ程心配することはない、と判断。頭がガンガンすると言って泣いている。「日本へ帰りたい。」「ヘリコプターを呼んで。」と、訴える。苦痛と不安でホームシックに罹っている様子。日本へ電話をかけたいと言うが、当然繋がらない。ミルクティや好きなジンジャエールも飲みたくないと言う。無理やり、水を少しずつ飲ます。サーダーと相談し、翌日朝早く下山することにした。一晩中、横で看病。サーダーも、心配で朝の4時まで起きていたとのこと。  長い夜が明け、ようやく11日の朝が来た。朝食も食べないで、6時過ぎに下山開始。ゆっくりだが、どんどん下る。残念だ。幻のローマンタンとなってしまった。沢井にも申し訳ない。天明は涙目で馬に乗っている。苦しくても、急な坂道は馬から降り、自力で歩かざるを得ない。サーダーが付きっきりで世話をしてくれている。9時半頃、サマル村で遅い朝食。アップルブレッドを注文したが期待外れだった。やはり下りは早い。無理なく、ゆっくり行動したが、11時半には、もうツェレ村に着いた。ムスタンゲートを渡り、チュサンで昼食。トマトスパゲティが美味かった。ここまで来ればもう安心だ。天明の頭痛も、けろっと治った。しかし、まだ食欲はない。風邪と疲労のせいだろう。ここでジープを1台チャーターした。1万円だ。半端でないガタガタ道を、一路ジョモソンへ。16時にはロッジに着き、温めのシャワーでリフレッシュ。天明は、早速日本へ電話して楽しそうだ。夜には食欲も少し戻り、ここで別れる馬方のゴンパルとポーターとの送別会で盛り上がっていた。片言の英語とネパール語、そしてジェスチャーで。飲み物は勿論スプライト。全員で記念写真を撮り、沢井のフェイスブックで流した。  翌12日、ポカラへの飛行機が満席だったため、チャーターしたジープで出発。途中、ダウラギリが綺麗に見えた。何故だか、ネパールには道路に境界があるらしく、ガサ村でジープを降り、昼食後、欧米人の一行と共同でチャーターしたバスで、タトパニ村まで下りた。ここまでの道も酷かった。ガタガタと、乗ってるだけで疲れる。この時期、ダサインというネパールの祭り用に生贄になるヤギの大群が、何十組と、ポカラへ誘導されている。その大群を上手に除けながら進んで行かなければならない。タトパニで、小さなプールのような露天温泉に入る。ここのチキンは美味かった。  13日、朝8時、バスでポカラに向け出発する。バスといっても、フロントガラスが割れた10人乗りのジープに16人も詰め込む。20分ほど行ったところで降り、細い坂道を上り下りして、次のバス停まで歩く。そこから、また、バスの狭い席に座り、ガタガタ道を約2時間近く、我慢我慢ひたすら耐える。11時頃、ようやくベニの町に到着した。ベニからは道路が舗装されている。小さなタクシーで、目的地のポカラまで2時間半だ。ポカラは大きな観光都市で、ホテルには当然バスタブがある。ゆったり湯に浸かり、極楽極楽、心身ともに解放される。  14日は、人生初のパラグライダー体験をした。飛行はたった30分間ぐらいで、あっという間に終わってしまった。夜は、ジャンガムや地元の警察署長、機動隊隊長と会食し、ネパール舞踊も観覧した。  15日、昼、機動隊隊長のサンブさんに、普通外国人は入れない隊長宿舎に招待された。カレーをご馳走になり、プレゼントまで貰った。隊長には常に鉄砲を持った護衛が付いている、公務の時は8人で普段でも2人。かつて、マオイストとも戦ったそうだ。サンブさんが、初めて天明を見るなり、「おお、グルンボーイ」と言った。グルンは、イギリスの傭兵で有名なグルカ兵の民族名だ。ククリ刀を持って勇壮に戦う民族、その民族に顔が似ているらしい。天明は、ネパールに来て、2つもニックネームができた。スプライトボーイとグルンボーイ。人気者で幸せだ。本人は分かっていないが。  16日。いよいよネパール最終日。天明だけ、やっと日本に帰れるのでワクワク。午後3時過ぎポカラを出て、カトマンズで夜まで観光と買い物。夜中の23時過ぎに、カトマンズを飛び立ち、17日の午後1時には関空着。これで、ムスタン不完全旅行の終了となった。まあ、皆無事に帰れて良し、としよう。最後に天明の感想、「日本が一番いい」。
07日 11月 2009
2009.9.16(水)~9.25(金)  ...
06日 11月 2008
―――第4回ヒマラヤトレッキング始末記――― 2008年11月6日~12日...
10日 10月 2006
3年ぶり、3回目のヒマラヤに行けた。昨年2月に心筋梗塞で倒れた時は、主治医から退院の時、「二度とヒマラヤには行けません」と、宣告されたことを思えば、まるで夢のようだ。生物部顧問の山本先生の指導で、中学生の時から石鎚山や剣山に登り始めて以来、すっかり山に取り付かれてしまった。高校時代と大学一年は山岳部に入った。北アルプスに四十日も入ったり、南アルプスや丹沢山塊をうろついたりしたことを思い出す。  初めてのヒマラヤは2001年10月に行ったアンナプルナBCだ。高校のOB山岳会15人のメンバーで、非常に楽しい山行ができた。ずっと体調も良く、4500メートルまで登れた。  2回目は2003年9月のテリッツオ・レイクだ。インスリンを毎日打ちながらの登山で、かなりしんどかった。でも、5800メートルまでは何とか行けた。  今年は、ブルーポピーで世界的に有名なランタンへのトレッキング。2006年9月15日の夕方、高松を出発して、関空からバンコク経由でカトマンズへ。16日の昼12時半には、もうカトマンズに着いていた。日本との時差は3時間15分だ。現地の旅行社に1人1000ドル支払う。 17日の朝、ヘリコプターで3010メートルのゴラタベラに到着した。そこには軍隊の基地があり、入山許可を受けなければいけない。すでに、サーダー(47歳)とサブ・サーダー(21歳の大学生)、コック、キッチンボーイ3人、ポーター3人の総員9名のスタッフが、全ての用意をして待っていてくれた。隊員は、亀井(41歳・男)、湯浅(27歳・男)、安達(56歳・女)と小生(58歳)の4人。ゆっくり、ゆっくり歩いて、3541メートルのランタン村へ向かう。 途中にはいくつもの茶店がある。その1つの庭から、4歳ぐらいの女の子が「チャイ、チャイ・・・」と呼び込む。つい誘われて、レモンティを注文してしまった。家の中に入ると、なんと生まれて8日目のあかちゃんがいたのには、ビックリ。裸にして体中にバターを塗りつけていた。父親といろいろ話し込んだが、最後に、やはり、「この4歳の子をカトマンズの学校にやりたいので里親になってくれないか」と、頼まれた。子供がいる親と少しでも話をすると、必ずと言っていいほど里親を頼まれる。 昼前には、ランタン村に着いた。四本線の電信柱があるのには驚いた。2年ほど前に水力発電ができたそうだ。ロッジもかなり新しいのが多い。すぐに子供たちが集まってくる。ペンやチョコ、タオルを欲しがる。昔は「スイート、スイート」と言って、飴を欲しがったのだが。 夕食はロッジの居間でとる。隣にあるキッチン小屋でコックたちが作った料理を運んでくれる。まず、テーブルクロスをしいて、紙ナプキン、ナイフ、フォーク、スプーンを並べる。スープから始まり、大皿に盛ったメインディッシュ、そして最後には必ずなんらかのデザートが出る。大体は缶詰のフルーツだが。こんな待遇は、ネパールでなければとうてい味わえない。 この日、高度障害のため頭痛がし、食欲もあまり無い。3年前や5年前の時とは大違いだ。やはり、病気による体調不良とトレーニング不足のせいなのだろう。 翌18日は朝6時に起床。部屋までモーニング・ティーとビスケットを持ってきてくれる。そして、しばらくしたら、洗面器に入れた湯が来る。こんなこと信じられますか?朝食は、味噌汁におかゆとパンだった。体調不良のわりには大きな大便がでた。しかも、昔インド旅行したとき以来のお尻のふき方を久しぶりにやってみた。右手に水をいれたコップを持ち、左手でお尻を洗う。インドは乾燥していたから、そのまますぐ乾いたが、ここではそのあとで、紙かタオルが必要だ。紙を使ったら便器には流さず、側の籠に入れるのがルール。 蕎麦畑やヤク・ゾッキョの放牧地のなかを4時間ほど歩いて、キャンジンゴンパ(3840メートル)に到着した。ゴンパとは寺院のことで、かなり大きいラマ教寺院があり、たくさんのタルチョ(旗)が張り巡らされている。大小色とりどりのロッジがある中で、一軒、日本人が経営している、Hotel Naya Khang があった。バイタリティあふれる、まだ28歳の若者だ。東京でかせぎ、年に3ヶ月ほどランタンに来るそうだ。19歳でヒマラヤに取り付かれた結果こうなったとのこと。食堂には、日本語で書かれた居酒屋メニューがある。残念ながら今回は体調不良で一回も利用しなかったが。そのロッジに、たまたま来ていた26歳の可愛い娘(東京大学の法科大学院生)と湯浅が仲良くなった。 ゴンパのすぐ下に、ヤクの乳で作るチーズ工場があった。蔵には6キロから13キロの丸いチーズの塊がぎっしりと詰まっている。ちなみに6.8キロので2000ルピー(約3400円)だった。亀井と安達さんが二人で1つ買っていた。これ誰が持つんだろう、と言いながら。 居酒屋の亭主に紹介してもらった馬に乗り、19日は、一人で、ランタンBCを往復した。朝7時に出発して、かなり急な道なき道を、ゆっくり、ビスターリ・ビスターリで進む。途中、3ヵ所は馬も停まってしまう。降りて30分ぐらい歩く。2ヶ所に、きれいな小川が流れている平原がある。そこには、青紫色の、可憐に美しいランタンりんどう(仮称)がたくさん咲いていた。ヤクやゾッキョや馬の糞がいたる所に落ちているのは興ざめだったが。 3時間ぐらいかかってランタンBCに到着した。ランタンリルン(7225メートル)が雲の間から、ほんの一時、顔を見せてくれた。その右には、巨大なカルガ(氷河)が大きく目の前に迫ってくる。それに連なる峰々もなかなかのもので、そう簡単には登らせてくれそうにない。ケルンが2つあった。その1つは日本人のもの。1961年5月11日に死んだK.MORIMOTOとK.OSHIMAとシェルパのGALTSEN NORBUの3人の名前を刻んだ石版碑を埋め込んでいる。実は、ランタン村にも、山の崖下に、この碑がある。2日前、偶然に出会った地元の老人が、草を掻き分けながら、そこまで案内してくれた。ネパールの地図には、6750メートルのあるピークにモリモトリーと名ずけていた。 12時ごろキャンジンゴンパに帰り着いた。800ルピーを馬子に払って、いざ昼飯へ。亀井と湯浅は、キャンジンリー(4773メートル)に登り、眼下の雄大な景色を楽しんできたと言う。湯浅に頼んで、今年亡くなった石本秋栄おばさんの遺骨灰をキャンジンリーの頂上から撒いてきてもらった。 20日、6時起床。今朝はこれまでで一番の快晴。周りの山々がはっきり見える。まず、何といっても、ランタンリルンの尖った白い頂上が群を抜いている。右回りに、カルガ(氷河)、いくつかのリーと続き、反対側には、雪で覆われた美しい台形のナヤカンリー(5846メートル)が鎮座していた。 8時すぎ、2頭の馬を引き連れ、全員でランシーサ・カルガ方向へトレッキングを開始した。少し行くと、大きい河原の真ん中に飛行場跡があったが、言われてみないと分からない。単なる小石ごろごろの広場。10年前まで使われていたとのことだが、壊れかけた石小屋(空港事務所跡)が痛々しい。さらに暫らく行くと、チーズ工場があった。工場といっても掘っ立て小屋。でも直径1メートルぐらいの銅製鍋とステンレス製バター分離器はなかなかのものだった。随行のシェルパも珍しそうに見ていた。自分の村にはない、と言っていた。 しゃっしゃか・しゃ、しゃっしゃか・しゃ、と聞こえる馬の鈴音に揺られながら、3時間ほど行った所に、小高い丘があり、タルチョが張っている。お神酒がある。信仰深いサーダーが、香木の枝を煙らしお祈りする。サーダーは名前をプルバ・ギャルゼン・シェルパといい、1982年にアンナプルナ南峰に登ったとのこと。その他、マナスル等5峰に登頂している。いつも一番最後からくるので時間を持て余し、道の石を除けたり坂を直したりしていた。なかなか出来るものではない。 ここが今日の目的地らしい。サブ・サーダーと馬子が馬に乗って、ヒマラヤ平原を楽しそうに駆け巡っている。あまりにも楽しそうなので、頼んでやらしてもらったが、馬が走ってくれない。何度か挑戦したが駄目。次回の再挑戦を自分に誓う。 午後3時ごろロッジに帰り着いた。今日の馬代は1頭につき1500ルピーだった。使用時間は2時間ぐらいの違いで、しかも馬2頭に馬子1人なので、少し高い気がした。いよいよ待ちに待った、さぬきうどんだ。昨夜からコックに頼んでいた。作り方を教えると、慣れたもので「葱はないけど生姜でいいですか」だって。驚き桃の木山椒の木だ。食欲が無くても、うどんなら別腹。つるつる入る。満足まんぞく。 天気もよく時間も余ったので靴下を洗い始めた。すると、サブサーダーのペンバ・シェルパがやってくれると言う。ネパールに3人目のチョラ(息子)ができた。本当に不思議なことに、ヒマラヤに来るたびにチョラができる。最初が5年前のバサンタで、2番目が3年前にできたアシスタマン。先日カトマンズで会ったアシスタマンは日本語が上手になっていた。ペンバは今カトマンズの大学でホテル経営学を学んでいる。将来はアメリカに留学したいと、意欲的だ。 前日飲んだ利尿剤のせいか、この日ようやく頭痛がなくなり、身体が4000メートルに慣れたみたい。夕食後は、ネパール人スタッフ全員と、歌や踊りの交換会となった。例によってレッサムピリリ(恋歌)を繰り返し歌い、シェルパダンスを習いながら踊った。馬の鳴き声を聞きながら熟睡。 21日、もう下山だ。天気が悪い中、いっきにラマホテル(2435メートル)まで下る。朝6時に出発して午後3時ごろ着いた。雨に濡れて、くたくた。ゴーゴーという河音がうるさい。 翌22日、森林地帯を下る。蝉が鳴いていた。ネパール語には、蝉という単語が無く、小さくてうるさいやつ、というらしいが、本当かな?森の緑、黄色い落ち葉、川苔のコントラストが美しい。油断をすれば蛭にかまれる。 午後2時ごろ、シャブルベンジ(1430メートル)に到着。かなり大きな町で、ホテルも立派。温泉があるというので期待して川底まで降りてみたが、がっかり。コンクリで囲んだ箱が並んでいるだけで、掃除もしていなく、藁の栓をすれば、ぬるくて黄色い湯が数十センチ溜まる仕掛けだ。ちなみに、ここは混浴。一番端の箱で、中年の女性が4人、お互いに背中を洗いながら入っていた。胸が見えても気にしていないのが不思議。我々は入るのを諦め、ホテルに戻りシャワーを浴びるが、やっぱり湯が出ない。しかし久しぶりなので、水だけでも気持ちがいい。さっぱりして、いざビール。うまい。1瓶200ルピー、不思議なことに、この値段はどこでも均一で、山の上でも同じだった。 最後の夜なので、コックたちが、デザートに大きなケーキを作ってくれた。食べる前に全員で記念写真を撮る。明後日からネパール最大の祭りのダサインが始まるので、たくさんのネパール人が、故里に帰るため、多くの土産物や荷物を持って集まって来ていた。ホテルの女マネージャーが作った手刺繍のチベット帽子を買って被り、一人遅くまでチベット族ネパール人たちと興にのっていた。 23日、午前6時半、屋根の上まで人が乗った満員バスでカトマンズへ出発。ゴロゴロでこぼこ道を難儀しながら走る。いつ上から大石が落ちてきて、バスもろとも谷底へ落ちても不思議でない。途中、がけ崩れの所を30分ほど歩き、迎えのバスに乗り換える。やっと一安心。午後5時半ごろカトマンズ着。何と、タイでクーデターが起きていた。安達さんのおごりでダッタン蕎麦を食べに行ったが、ものすごく美味しかった。しかも高級感あふれる佇まいの店でびっくり。 ネパール最後の日、午前中ジャンガムの案内でパタンや猿がいっぱいいる河横の葬式場へ行った。ダサインが始まったので人出が多い。ホテルにサーダー、サブ、コック、そして、安達さん(カトマンズ在住)が素敵なサリーを着て見送りに来てくれた。再会を誓ってお別れ。 来年の10月は、高校OB山岳会五十周年記念で、ダンプスピーク(6012メートル)を目指す。そして、数年後には、孫を連れて再びランタンにきて、ヒマラヤ4000メートル高原を、馬に乗って一緒に駆け巡る。それが現在のささやかな夢だ。身体を鍛え、気力を養わなくっちゃいけない。                         2006年10月10日
05日 10月 2005
今年の二月二十六日のことだった。なぜか二・二六記念日。...
31日 10月 2004
今、日本は大変な韓流、大韓民国ブーム。旅行者も増える一方だし、テレビの韓国番組もいっぱい。ほとんど毎日何かやっている。古くから韓国と関わって来たわたしは、多少の戸惑いを感じながらも、本質的な韓国大好き人間として、大いに歓迎だ。...

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